わが国の国土や歴史に愛情をもつように自覚をうながす、と記したのは誰なのかとして、その意図を色々と推しはかれる

 わが国の国土や歴史に愛情をもつ。そのような自覚をうながす。高校の地理歴史の教科で、そのような目標を明記することが、文部科学省によって決められたという。国を愛する心を生徒に持ってもらおうとするもくろみによるのがありそうだ。

 目標としてかかげられているものである、わが国の国土に愛情をもつというのは、いったいどういうことなのだろうという気がした。今まで生きてきて、国土に愛情を持ったことはちょっと思い当たらない。国土を愛するというのは、ちょっとおかしなことなのではないかという気もしてしまう。国土と言われても、抽象によるものであるし、人為によるものでもあるし、広いし、無機物でもある。それよりかは、生まれ育った郷土を愛するというのなら、わからないではない。

 わが国の国土や歴史に愛情をもつように自覚をうながすとして、そうすることでどういった利点があるのかを示せればよい。こういったよいことがあるから、このようにするのがよい、となっていれば、根拠が示されていることになる。欠点がひそかに隠れていないかも見のがせない。そうしたのがなくて、ただ愛情の自覚をもてと言われても、説得性としてはどうなのだろう。過去の歴史をふり返れば、自国に愛情をもちすぎて、おかしな方向に向かい、狂ってしまった例がある。

 教科書に書いてあることは、本当かどうかは必ずしも確かではないので、疑う視点も忘れずにもちましょう。こんなふうな指導をしたらどうだろうか。教科書に書いてあることにかぎらず、新聞に書いてあることや、テレビで言っていることや、政治家の人が述べていることなどにも、疑う視点をもつ。そうしたふうにすれば、素直であるがためにだまされてしまうのを多少は防げる。はなから疑ってかかるというのだとちょっと行きすぎてしまうかもしれないが、はなから信用してしまうのはちょっと危険であるだろう。気を抜いていると、ついついうかつに信用してしまうこともあるのは確かである。

 一人ひとりの生徒の見識が少しでも高まってゆくのであればよい。そうしたのがあるとして、そのために、わが国の国土や歴史に愛情をもつという自覚がいるのかというのがある。かえって阻害してしまうというか、じゃまになってしまうおそれもないではない。教条主義のようにして、これこれでなければならないとするのではなく、生きて行く中で、色々な情報に接して、自分の中で定点のようなものを形づくることができればよい。自分がどこの国に属しているのかというのは、偶有性によっているのがあるので、必ずしもそれに愛情を持たなくてもよいような気がする。そうした愛情は、(国という)特定の囲いの中でしか通用しづらいものである。