持っているものさしのちがい

 朝日新聞は、いくつものまちがった報道をしている。そのように首相は国会で述べている。いかに朝日新聞が事実とは異なった報道をしたのかを、いくつかの例を出して述べ立てる。およそ五分ほどそれは続いたという。そのさい、そこで言われている例が、ほんとうに誤報と呼べるものなのかというのがある。そこを改めて見ることができそうだ。

 そのように改めて見ることができるのに加えて、表出と秘匿の関わりによるやっかいさもある。朝日新聞誤報をいくつもしているとして、首相が国会で発言をすることは、一つの表出である。その表出は、何かを表に出しているものであるが、それと同時に何かを秘匿しているものでもある。表出することが、何かを秘め隠すものとしてはたらく。その秘匿しているのは、たとえば自分のまちがいであったり、他のもののまちがいであったりする。一つの表出によって、ほかのちがうものを秘匿するはたらきをしてしまうのがあるから、そこに目を向けることができる。

 国会における首相の立場は、中立であるものとは言いがたい。全体を代表しているようによそおうことはできるかもしれないが、じっさいには部分しか代表してはいない。全体をまんべんなく代表しているわけではないのであり、首相という存在は、ある特定の立場による拘束を被っているということができる。これは、存在被拘束性といわれるものである。社会学者のカール・マンハイムという人が説いたことであるという。

 首相だけがそうした存在被拘束性をこうむっているのではなく、朝日新聞もまたそれをこうむっているのは確かである。お互いにそうしたところがあるというわけである。どちらかだけが偏っていて、もう一方は偏りがない、というわけではない。自分の立場というものに規定されてしまっているのがあるので、そこを少しくらいは自覚することができれば、ほんの少しくらいは有益な言い合いができそうである。まったく無自覚であると、不毛な言い合いになってしまうのがある。

 朝日新聞は数々の誤報をしている、という見かたに確証をもつ。そうした見かたには、認知の歪みがはたらいているおそれがなくはない。これこれこういったことだから、誤報をしているというふうに言えるとして、それを改めて見るととらえちがいになっているということもある。そうしたとらえちがいがおきてしまうのは、存在被拘束性があるためだということが一つにはできる。

 何ごとも、悪い面ばかりではなく、よい面もまたあるわけだから、そのどちらか一方だけではなく、両方を見ることができれば偏らなくてすむ。数々の誤報をしているとしてしまうと、悪い面だけをとりあげてしまうことになりかねない。それがはたして公平なとりあげ方なのかといえば、そうとは言えそうにない。悪い面を言ったのであれば、よい面もまたとり上げたらどうだろうか。そのように悪いのとよいのを両方とり上げるのが、いつもよいことだとは言えないし、いつもやる必要があるとも言えないが、抑揚がとれることは確かである。印象操作を避けることができる。

 報道機関が誤報をしたとして、それは失敗ではあるが、たんにそうであるだけではなく、一つの資源であるというふうにもできる。とり返しがつかないような、致命的といったほどのものでなければそのようにとらえられる。その資源を生かして、これから先に成功するようにできればよい。失敗は成功の母である。そのようにするためには、うまく資源を生かすようにして、失敗を省みて、これから先にそれを生かせるように改善をしてゆく。そうして、報道の質が上がれば、国民にとって益になることが見こめる。

 報道機関が権力へだめ出しするのを、ポジ出しすることもできるのではないか。そうではなく、権力にポジ出しして、報道機関にだめ出ししてしまうようでは、権力が腐敗しかねない。さじ加減があるものではあるが、抑制と均衡(チェックアンドバランス)をはたらかせられたらよさそうだ。政治とともに、日本では社会の中で、経済権力が幅を利かせすぎなふしがある。それが超過搾取や格差を生んでしまっている。経済による評価は、たんに一つのものさしによるのにすぎない。それで一元化することはできないものである(じっさいには量で一元化されてしまってはいるが)。

 失敗は一つの資源というのがあるとして、失敗を失敗であると見切ってしまうのも一つの手である。そのようにするのではなくて、うわべにおいて成功しつづけているとしてしまうと、見切ることができなくなる。このようになってしまうと、(政権を)切り替える機会を失ってしまいかねない。早めに切り替えたほうがよいことが、可能性としてあるのはたしかである。

 目ぼしい替えが見あたらない中で見切ってしまうのは、そこにためらいが起きてくるのがある。そうしたためらいが起きるのは不自然ではない。そのうえで、かりに今ある政権を一つの着想と見立てることができるとすると、その着想を思いきって捨ててしまうことで、また新しい着想が生まれ出てくる。このように、よい着想が出てくるまで、今あるものを捨てていってしまうのが、一つの着想法のコツであるというのがあるそうだ。そのようにすることで、部屋の換気のために窓を開け放つように、空気が入れ替わるのである。

 何でもかんでも早く捨ててしまって切り替えればよいというわけではないのは確かだけど、撤退をできるだけ迅速にすることで、傷が深くならないようにするための手とできる。そのように撤退を早くすることができれば、説明責任(アカウンタビリティ)が保てる。もし何かあったらすぐに政権を切り替えることができる、というのがあることで、はじめて説明責任が成り立つ。それがなければ、説明がなく責任もとらないあり方が許されてしまう。