かもしれない運転と、だろう運転と、である運転があるかもしれない

 かもしれない運転をする。自動車を運転しているさいに、大丈夫だろうとはせずに、人が急に飛び出してくるかもしれない、といったように、神経を配っておくようにする。そうしたことが、国内にスパイやテロリストが潜伏していることについても言えるのだという。はたしてそうしたことが言えるのかどうかを改められる。

 たしかに、スパイやテロリストが国内に潜伏しているのかもしれない。それは、自動車の運転で言うところの、かもしれない運転に通ずるのがないではないものだろう。そうしたのはあるが、それはあくまでもかもしれないの水準にとどまっているものである。なので、かもしれないという水準にふさわしい表し方をするのがかなっている。必然性として表してしまうと、自動車の運転でいうところの、だろう運転やである運転のようになってしまう。そうではなくて、可能性として表すのがふさわしい。ゆるい表し方だ。

 かもしれないであるようなものを、だろう運転における、だろうであると見なす。それをさらに飛び越えて、である、というふうに断言してしまう。そのように表してしまうと、飛躍がおきてしまっているため、適切であるとは言いがたい。最初にあった、かもしれないの水準が忘れ去られてしまっている。かもしれないにおいては、ある種のネタみたいなのが入りこんでいる。そのネタのところが捨て去られてしまい、マジのようにとりあつかうのだと、ネタをマジだととりちがえることになるおそれがある。ネタというのは、偶像(イドラ)といってもおかしくはない。そうしてネタと言い切ってしまうことはできないのはたしかなので、マジであるかもしれないのはある。

 かもしれないをいうのであれば、そうであるかもしれないのだけではなく、そうではないかもしれないともできるのがある。そのように場合分けができる。そうではないかもしれないという方のかもしれないは、そうであるかもしれないよりも、目立ちづらい。目立ちづらいから重要ではないというふうには言えそうにはない。むしろ、目立ちづらいけど重要なのだというふうにもできる。なので、一方のかもしれないだけではなく、もう一方のかもしれないも踏まえられるとよさそうだ。でないと、自動車の運転でいうところの、だろう運転になってしまう。さらに行きすぎてしまうと、である運転のようになる。

 おもてなしとして、客迎え(ホスピタリティ)が関わってくるのがあるかもしれない。自分たちといちばん遠いところにいる人は敵対者や外部の者であるわけだけど、そうした人をおもてなしして客として迎え入れる。友を客として迎え入れるのは当たり前だが、そうではなくて敵対者や外部の者を客として迎え入れるのが肝要である。そのようにすることで、敵対者や外部の者であったのが友となる。確実にそのように変わるとはいえないわけだけど、そのように変わることが絶対にないとはいえそうにない。このようにして変わることがあれば、それも一つの安全保障となると見ることができる。試しとしてやるのも一つの手だろう。

 そんなお花畑のような甘い話が現実におきるわけがないというふうにも言えるかもしれない。たしかに、自分たちからいちばん遠い人を客として迎え入れるのは、合理の回路から外れるようにするのでないと、なかなかできるものではない。そのうえで、人類の文化の一つとして、こうしたならわしが知恵として古くから行なわれていたのもあるという。なので、まったく荒唐無稽の話とまでは言えそうにない。日本には、おもてなしという言葉があるのも無視できない。この語句のあらわす意味をあらためて見ることができる。かつての鬼畜米英は、今では敵ではなく友となっているのがある(基地の問題では米とは一部でもめてしまっているのはあるが)。