差別に当たるのかどうかというのは、そうした意図があるのかどうかと、結果として差別に当たるかどうかを見ることができる

 差別だという人こそ、差別主義者である。差別につながりかねない発言だとする他からの批判を受けて、そのような批判を言う人こそが差別主義者であるのにほかならないとする。このようにして、何々と言う人こそが何々だ、とすることもできるわけだけど、そこには問題がないわけではない。

 差別だと言う人こそ差別主義者なのだというのは、差別だと批判をする他の人に原因を当てはめてしまっている。差別だと批判をする他の人に原因があるのであり、自分に原因があるのではないとしているわけだ。これは自己防衛による回避のあり方である。こうして回避してしまうと、自己欺まんになりかねないのがある。欺まんになってしまうのを避けるには、自分にもまた(批判を受けるだけの)原因があるのではないかと省みるのがあるとのぞましい。

 この程度の議論が認められないのであれば、国の安全保障を論じ合うことはできない。そのように言うのがあるとして、そこで言われるこの程度の議論というのが、はたしてどんなものなのかが問題だ。それが陰謀理論なのであれば、程度の高い議論であるとは見なしがたい。むしろ、そうした陰謀理論をとりあげないほうが、国の安全保障を論じるうえで有益といえるだろう。陰謀理論が入りこむと、議論の程度が低くならざるをえない。

 議論の程度が低くなるというのは、一つには危機をあおりすぎることになりかねないのがある。危機には認識があるわけだけど、その認識は利害関係による。多数派に利があり少数派に害があるような認識になってしまうのだとまずい。少数派が悪玉にされて、排除されかねないのであれば、その懸念は小さく見積もられてよいものではない。

 危機の認識をもつなというわけではないが、できれば文脈を一つに固定せずに、持ち替えられればよいのがある。文脈を一つに固定すると陰謀理論におちいる。そのようにしないで、固定させないようにすれば、参照点を変えることができる。危機を高く見なしたり、低く見なしたりすることができる。低く見なしたほうが妥当なこともあるわけだから、そこを軽んじないようにできればのぞましい。安全の押しつけのようになってはまずいのがあり、誰がどのような安全をのぞんでいるのかを、なるべくきめ細かく見ることができればよいのがある。それぞれの遠近法というものがある。

 差別になりかねないのであれば、差別は合理の区別とはいえないわけだから、合理の議論につながりづらいのがある。合理による議論をするためには、できるだけ差別につながらないような配慮をするのがあってよい。国の安全保障という大きな言葉(ビッグワード)を用いるとして、その大きな言葉の影に隠れるようにして抑圧や排斥がおきてしまうのだとしたらそれはのぞましいことではない。そうしたことがおきないようになるべく気をつけるのがあるとよさそうだ。

 国の安全保障といった大きな言葉にまぎれこんで、差別につながりかねないような言動が流れるとして、それに簡単にそそのかされないように気をつけないとならない。弱者や少数者における人間の安全保障は、国と比べたら言葉は小さいかもしれないが、だからこそより重要だ。国という全体は幻想性によるものであり、虚偽であり、不真実であると見なすことができる。観念である思いこみによるところが小さくない。

 国民にとって最大ともいえるような不幸をもたらすのが戦争なわけだから、それをできる限り引きおこさないようなことができればのぞましい。そうした点に立つのにおいて、なるべく国からの精神または物質の利得を得ようとしないようにできればよいのがある。そうした精神または物質の利得を国から得ようとすると、戦争につながりやすくなるという。国からの甘い誘惑やささやきとして、利得を与えられるのがあるとして、そうした誘いに簡単にのらないような勇気があればよい。勇気というのは、にも関わらずという精神である。人それぞれだから、それはそれで必ずしも悪いとは言い切れないかもしれないが、もし国からの甘い誘いにのってしまうのだと、権力の奴隷となり、太鼓もちとなると言ってもさしつかえがない。