言い訳をするのは必ずしもみじめではない(完全に反証から逃れようとするのだとみじめかもしれない)

 報道した記事について、朝日新聞は、その一部に誤りがあったことを認める。それにたいして謝罪はしなかった。そのことについて、ウェブで批判の感想を述べたのは、安倍晋三首相である。フェイスブックにおいてそうした書きこみをしていたようだ。その書きこみは削除されたようである。

 哀れであり、いかにも朝日新聞らしいみじめな言い訳である。予想通りであった。こんなかんじの書きこみだったようである。首相が朝日新聞にたいして決して小さくはないうっぷんの感情をもつのも分からないではない。そうしたのはあるわけだけど、一組織にたいして、哀れだとかみじめだとかという形容詞を使うのはどうなのだろうかという気がする。適したものであるとはちょっと言いがたい。国の長の地位にあるのなら、人または集団がもつ可能性を尊ぶようにして、一方的にこうだと決めつけないようであればよい。

 朝日新聞らしいみじめな言い訳だと首相は言っているのがあるけど、これについて改めて見てみると、はたして朝日新聞らしいということが言えるのかというのがある。誤った報道をして、それについて言い訳をするのは、なにも朝日新聞にかぎったことではない。近いところでは、産経新聞が誤った報道をしたのがある。それについて産経新聞は誤りを認めていて、謝罪もしているようだけど、潔い姿勢をとっているかといえば、そうとも言えそうにないのがある。

 どこの新聞社であっても、誤った報道をしたのがあるとして、それについて弁明や言い訳を多少はするものだろう。そうした弁明や言い訳は、それなりの理由があってのことであるとすると、必ずしも言い逃れだとはいえそうにない。誤りがあったのにもかかわらず、それをまったく認めないのであればのぞましくない。そのように認めないのではなく、いちおうは認めているのであれば、確証(肯定)が崩れて反証(否定)されたのを最低限は受け入れていると見なせる。反証から完全に逃れようとしているとはいえないものだろう。

 反証から完全に逃れようとするのは、一見すると極端なあり方ではあるけど、そのようになってしまうことがある。まちがっていたり失敗していたりするのにもかかわらず、それを認めないで、あくまでも正しいとか成功しているとかというふうにしつづける。このようなふうにするのではなく、非を自分で最低限は認められるのであれば、それは哀れではなくみじめでもない。哀れであったりみじめであったりするのは、どちらかといえば、非を自分で認めないで中和化してしまうことである。中和化とは、非であるものを、非ではないとすることである。反証を受け入れずに確証をもつ。

 朝日新聞は謝罪することがいるのかというのは、たしかに謝罪があってもよいのがある。しかしそれは、あくまでも自発でやるのがよいものであり、ほかの人から言われてやるのではしかたがないというか、あまり意味があるものとは言えそうにない。謝罪をさせられるというのでは外圧によっていることになる。それに加えて、謝罪をしなければならないのは朝日新聞にかぎったことではなく、ほかにも色々とあるのはたしかだ。謝罪をする必要ということでは、その必要は色々なものが持っていると見なすことができる。特定のものが謝罪をするのではなく、謝罪をし合うという形をとるのがふさわしい。謝罪し合うというのはちょっと変なことかもしれないが、そうしたことができれば、それぞれがお互いに成長するきっかけをもてる。