母親の一般化を解くこともできるかもしれない

 あたし、おかあさんだから、という題名の歌の歌詞がある。これは、絵本作家ののぶみ氏によるものだという。歌がつけられていて、NHK歌のおにいさんを務めていただいすけおにいさんによって歌われている。歌詞を手がけたのぶみ氏によると、歌詞だけではなく、歌の曲調もあいまって一つのまとまりとなっているから、そこを見てほしいとのことである。

 歌を抜きにして歌詞だけを見ると、色々なとらえ方ができるのがある。それで、とても感動できる内容だと受けとる人もいれば、他方であまり賛同できないといった感想をもつ人もいるようである。替え歌もつくられていて、あたし何々だから、というふうに、おかあさん以外の語を当てはめて、だからこうであるといったことが言えるのがある。

 お母さんだからというふうに歌詞の中では言われているわけだけど、このような言い方だと、お母さんだからこうしなければならないとか、こうでなければならない、といったふうにとらえられることはたしかだ。お母さんというものを仕立てあげることになっている。言葉はちょっと悪いかもしれないが、排除型の人間観になっているふしがある。よいお母さんはこういうものであるとして、それ以外をそうではないものとしてしまいかねない。

 現実には色々なお母さんがいてもよいというのであれば、多様性を指向する人間観をとることができる。色々なお母さんのあり方があり、それが許される社会であるほうが、ゆとりのある社会であるということがいえるかもしれない。社会にとっても益になるところがある。

 父親や母親と、子どもという関係だと、緊張感が生じる。歌詞の中では、お母さんと子どもの関係に的がしぼられているので、なんとなく緊張感が感じられるようである。これを緩和するには、お母さん以外の人による手助けなんかがあったほうがよさそうだ。祖父母なんかがいてくれて、手助けをしてくれるのなら、そこにしばしば冗談関係が成り立つ。子どもにとっての緊張感も和らぐだろう。

 お母さんが置かれている現状というものがあり、その現状においては、お母さんは少なからず自己犠牲を強いられる。それははたして美しいものなのだろうか。そこが若干の疑問である。現状としてはお母さんは少なからず自己犠牲を強いられるのがあるとして、それは実証である。その実証から価値は導き出しづらい。価値は価値として、また別にとらえられるのがありそうだ。

 歌詞の中で、お母さんは、お母さんになる前は、自分のやりたいことをやったり、自分で生き抜こうとしたりしてがんばっていた。それがお母さんになってからは、子どものことばかりになった。子どもを優先させているのである。この二つのあり方があるとして、そのどちらかというよりは、中間あたりのあり方をとれないものだろうか。自分だけというのではなく、かといって自分以外の子どものためだけというのでもなく、そのつり合いがとれればさいわいだ。お母さんの自己犠牲ではなく、自己実現ができればのぞましい。それを許さない外からの圧や世情があるとすると、理想論ではあるかもしれない。