嘘八百の確証(肯定)と反証(否定)

 籠池氏は嘘八百である。森友学園についての質問において、首相はそのように答えていたようである。この嘘八百というのについては、そうした題名の映画を首相は先に鑑賞しているそうで、そこから、この文句が口から出たのだろうか。

 籠池氏は嘘八百である、という発言について、この発言が嘘ではないのかというふうに見ることができる。この発言が嘘ではなく本当だというのは、何によって明かされるのだろう。嘘八百というさいの八百というのはじっさいの数字である実数ではなくて虚数と言われるものだろう。なのでそこは置いておくとして、籠池氏は嘘をついている、と決めつけることになる。

 首相の夫人である昭恵氏については、聞かれたことに誠実に受けこたえている、と首相は述べている。これについては、首相にとって夫人は身内なので、誠実にこたえているとはいっても、身内をかばうことは自然であり、つき放すことはできづらい。代理でこたえているというのもあり、夫婦といっても個人としては別人なわけだから、人格がぴたりと一致するわけではないだろう。

 籠池氏を嘘八百だとして仕立てあげてしまうのには賛同できないのがある。そうしてしまうと嘘になってしまうおそれがある。人間は言葉を用いることで、原理として嘘をつくことができる。嘘が少なからず入りこむ。真実そのものは開示できづらい。なので、八〇〇とは行かずとも、嘘一とか二くらいは誰でもついてしまうものである。嘘がゼロとはなかなか行かない。このさいの嘘とは、まちがいを犯すことを避けづらい、といったことでもある。無びゅうではいられないということである。可びゅう性をもつ。

 籠池氏が嘘八百だとして決めつけてしまうのではなく、とり沙汰されていることに関わった当事者が自分たちの口から直接に知っていることを語るのがあるとよさそうだ。そのようにして語ることがなく、たんに籠池氏を嘘八百と決めつけて片づけてしまうのだと、印象操作になりかねない。籠池氏が嘘八百だとして嘘をついているのではなく、逆に本当のことを語っているおそれがあることはたしかである。その可能性はゼロではないだろう。そこを尊重することで寛容さをとることになり、また無罪推定として見ることにもなる。そのように見ないと、籠池氏の立場を尊重するという正義が損なわれることになる。唯一にして絶対の正義というわけではないだろうけど。

 個が国家にたいして不正義をはたらいたのだ。そのように見なすこともできるかもしれない。そうした見かたとは別に、国家が個にたいして不正義をはたらくことに、十分な警戒をもたないとならない。国家は公であり、個は私である。公が私を押さえつけることはめずらしいことではないのがある。こうした図式による不幸は行なわれてきたものである。なので、私が十分に尊重されることがあるとのぞましい。国家の公の肥大は危険である。

 権力者やそれに近いところにいる人においては、有罪推定の前提で見ることは、権力チェックとしてあってよいものだろう。あまり行きすぎてしまうとまずいのはあるかもしれないが。とり沙汰されていることについて、白とはいえず灰色として見られるのがあるとすると、そこをできるだけ払しょくするように努める。そうした立証責任が権力者の側にはある。完全には立証できないとしても、できる手が残されているならそれをやることがあるとよい。

 権力者が言いがかりをつけられたさいには、自分で黒ではないのをなるべく証明する。そのさい、言いがかりをつけるのは、えてして野党(反対勢力)であったり報道機関であったりである。言いがかりをつけてくるところへ向けて、(権力者の側が)言いがかりをつけることもできなくはない。それが必ずしも悪いとはいえないのはあるが、自己欺まんにおちいってしまいかねないのがある。性格論として、人間そのものが悪いというのではなく、過去に行なった行動にあやまりがあるのなら、そこを認めるのがあってよいはずだ。そうした行動の非を認めずに、とり沙汰されていることの原因を外に当てはめてしまうのは、正しくない判断となりかねない。