社会の中で犠牲となる人が少なからず出てしまっている以上は、ナショナリズムの負の作用がはたらいているといえる

 日本はナショナリズムから卒業した。それだけの成熟を果たした。思想史家の人は記事の中でそのように述べていた。思想史家の人は、このように言っている。日本はナショナリズムから卒業したわけだけど、中国や韓国はそうではないのだという。まだナショナリズムの段階にいる。国が侮辱されたということでさわぐ。日本とはちがい、まだまだ成熟が足りていない。

 日本に比べて、中国や韓国にはまだ成熟が足りていないとして差をつけてしまうのは、ナショナリズムではないのか。そのように感じた。このように差をつけてしまうのは、日本は優れているとして、いっぽうで中国や韓国は劣っていると言っていることになる。こうした差のつけかたは合理によっている区別だとはちょっと言えそうにない。合理でない区別のつけかたはナショナリズムの論理である。

 もし日本がナショナリズムから卒業しているのであれば、そこから卒業できてはいない中国や韓国に寛容になれるはずである。大人と子供といったように、次元を異にしているのなら、あるていどの寛容さをもてる。そのような寛容さが現実にもてているのかといえば、(なかにはそのような人もいるだろうけど)日本の国の全体としてもてているとは言えそうにない。国の全体としては非寛容になっている。これは、たがいに次元を同じくしているのをあらわしている。

 日本はナショナリズムから卒業したのではなく、逆に入学したのだということができそうである。そこから卒業するまでの道のりはまだまだ遠い。卒業見こみも立っていない。過去のある時点で卒業したこともあるのかもしれないが、それは瞬間のできごとにすぎない。またすぐに舞い戻ってきてしまった。回帰してしまう。

 成熟した国として、日本はナショナリズムから卒業して、よい国になった。経済においてもいぜんとして豊かである。こうした見かたには疑問を投げかけざるをえない。というのも、そのように見るのが完全にまちがっているというわけではないにせよ、現状にたいしてありがたやとして肯定するわけにはちょっと行かない。そうしてしまうと、認識がおろそかになりかねないのがある。危機をもたざるをえないことが社会の中に色々とあるのを無視できそうにない。それらのすべてをもれなく認識できているというわけではなく、わずかにしか知らないのはあるが。

 一人ひとりのもっている自由の幅が、人によって大きかったり小さかったりする。大きめの人はそれでよいわけだけど、小さい人がいることは危機である。自由の幅が小さすぎて、健康で文化的な最低限度の生活すらままならない人が少なからずいる。これはきわめて不幸なことである。不幸であるだけでなく、疎外が行きすぎると個人の精神は狂気にいたりかねない。こうしたことがあるとして、それを放置しているのはまずいことであり、できるだけすみやかに何らかの手を打って改善することがあるのがいる。手が打たれないと、社会全体が地盤沈下して、ひどくなれば崩壊してしまうだろう。

 手を打てといっても、そんなことは大かたの人がわかっていることであり、手を打てと言うだけでは抽象論にとどまっている。抽象論を言うだけなのなら責任をもった発言とはいえない。そうしたことが言えるのはたしかである。これは一つには、何らかの手だてがいるのがわかった時点では、すでに若干の手遅れだといったようなところがあることによる。病気になってはじめて健康のありがたさがわかる、といったあんばいだ。そうしたのはあるだろうけど、だからといって運命論のようにやむをえないことだとすることはできない。正すのに時間や労力や費用がかかるとしても、機会平等(形式の平等)だけをもってしてよしとするのではなく、結果平等(実質の平等)をもたらすようにできればよい。

 もしナショナリズムから卒業しようとするのだとしたら、いまの日本の現状をよしとするのとはちがった見かたをとらないといけないのではないか。というのも、日本すごいみたいなことで、日本の国を持ち上げてしまうと、ナショナリズムになってしまうのがあるからである。見せかけの上げ底になる。そうした見かたをとってしまうと、ナショナリズムを卒業するためにいるであろう必要条件や十分条件を満たせそうにない。

 それらの条件を満たして行くためには、日本の駄目なところやいたらないところやおかしなところをあえて見て行くことがいる。それで、そうした駄目なところやいたらなさを少しでも正して行ければよい。そのようにできれば、ナショナリズムからの卒業にほんの少しくらいは近づいて行ける。そうした卒業への道のりから、現実はむしろ逆行してしまっているような気がしないでもない。