剣による近道反応

 未解決とされる事件についてのテレビ番組が放映される。朝日新聞社の二名の記者が殺傷されたとされる、赤報隊事件である。これについて、二日間にわたり、NHK で番組が特集された。その番組は見ていないのだけど、いまだにこの事件を肯定する人もいるという。赤報隊による事件を義の挙行だとしているのである。

 テロルとは、ふつうは物理の力である剣によるが、そうではなくペンによるものであるという。ペンにより国家をおとしめているものをさす。そうしたものへ暴力をふるうことは、テロルではない。愛国として正しいことなのだという。このとらえ方には少なからぬ違和感をおぼえる。

 テロルというのは政治がからむ殺人などの犯罪のことと言える。じっさいにそうした殺人を企てて実行したのはどちらなのかといえば、赤報隊事件の行為者(犯人)にほかならない。けっして朝日新聞ではない。朝日新聞がペンによるテロルを行なったというのは言いがかりであり、テロリストは赤報隊事件の犯人であると言わなければならない。

 国家とテロリストとは、相通じるところがある。そうしたことの一端が、赤報隊の事件からはかいま見られるのではないか。見かたによっては、国家は最大のテロリストだとも言える。それというのも、物理の暴力を独占しているのが国家だからである。権力は、人の命を奪うこともできる。権力の言うことを聞かないのであれば、最終の手としては暴力を振るってでも支配しようとする。

 赤報隊事件がおきたことで、殺傷の被害を受けた朝日新聞の記者の人は、それまでの状態が激変した。このような激変がおきたのは、暴力をこうむったからである。ここに物理の暴力の恐ろしさがあると言えそうだ。

 この事件について、それを義の挙行だとする見かたがとられているのがあるけど、そのように見なすのは、正義だとしていることになる。そうした正義は、あたかも自分たちが神さまででもあるかのようなものである。独断として、自分たちが絶対に正しいということになってしまっている。そうした純粋な動機によって、事件がおこされてしまった。純粋な動機でつっ走ってしまうのはとても危険なことである。じっさいの社会にはさまざまな考えを持つ人たちがいるわけだから、それが認められないとならない。

 朝日新聞を悪玉化することには賛同できないのがある。そのようにして悪玉化してしまうと、人間と非人間といったような断絶線が走ってしまう。われわれは人間であり、他方には悪玉化される対象となる非人間がいる。そうした非人間には暴力を振るってしまってもかまわない。そうしたまちがった判断がとられる。このようなまちがった判断がとられてしまうのは、一つには、国家主義をとってしまうことによる。愛国と売国(反日)ということで、人間と非人間による断絶線を引いてしまうのだ。こうした線引きは決してめずらしいことではない。

 どのような人間であっても、自然的権利をもつ。その権利があるわけだから、一人ひとりの人間が生存をまっとうすることがなければならない。それを妨げる権利は誰にもない。それを妨げてしまうのだとすると、社会が成り立たなくなってしまう。社会というのは、一人ひとりがみな生存をまっとうすることをもってよしとするものである。それが不当に妨げられるのであれば不正義だということになる。

 正しさというのは、目的がどうなのかによってちがってくるのがある。みんなが同じ一つの目的をよしとしているのではなく、それぞれがちがったものをよしとしているのであれば、何が正しいことなのかというのもまたちがう。実在のありようはそのようになっていると見なせる。何か単一の目的だけを正しいものだとして、それに反する者を物理の力で排除してしまうのは正しいことだとは言えそうにない。人間はみなそれ自体が目的であり、手段としてあつかわれないのが理想である。じっさいの現実では、経済の世界なんかでは労働者が手段としてあつかわれているわけだけど、それは経済の世界がいちじるしく退廃(腐敗)しているのをあらわす。

 朝日新聞を悪玉化してしまうと、悪いものだとして仕立てあげてしまうことになる。そのような仕立てあげをするのだとまずい。朝日新聞とそれと対立する人たちとのあいだには、なかなか相互の対話はなりたちそうにない。それは難しいものなのがありそうだ。もともと対話をする気がないというのもあるかもしれない。そうであるからといって、独話をもってしてよしとしてしまうのだと、お互いのあいだの摩擦が解消することにはなりそうにない。

 売国反日であるとして、属性(キャラクター)として見てしまうと、実在を見ることにはならないのがある。不当な過度の一般化や単純化をしてしまっている。朝日新聞の主張していることについて、それを受けとるさいに、認知の歪みがはたらく。それで意味づけされることになる。主張を受けとるさいにはたらく認知の歪みを改めることができれば、意味づけの仕方も変えることができる。うまくすればの話ではあるが。

 最高価値の没落ということでいうと、国家というのは最高価値にはならない。これは認めなければならないことなのではないか。いや、それは断じて認められないというのもあるかもしれないが、それだと教条主義におちいってしまう。唯一の最高価値をよしとする一神教となる。そのようなあり方ではなく、価値の多神教をとるのがのぞましい。よしとする価値を異にする者どうしで、じっさいに対話が成り立ちづらいのはあるわけだけど、そうであるからといって、どちらもゆずらずにそれぞれがそれぞれを絶対だとすると独話となる。閉じてしまうことになる。自明性の固い殻の中に閉じこもることになるだろう。

 人間には合理性の限界があるわけだから、唯一にして完全な正解というのにいたりづらい。そうしたものにいたるには、絶対の合理性があることがいるわけだけど、それは神さまでもないかぎりは持てないものである。あくまでも限定された合理性しか持っていないとして、なるべく開いたあり方をとるようにして、高次学習をとるようにする。そうしたことによって、不満を少なくして満足を増やすという手がとれる。絶対の満足というわけではないが、相対の満足は得られる。そこらへんのかね合いは難しいこともあり、自分の中にいちじるしい不満がたまってしまうと、爆発してしまうこともなくはないから、なるべく気をつけないとならない。もし爆発してしまうにせよ、それは朝日新聞のせいではなく、たとえば経済の格差による不平等なんかのほうが大きそうだ。