結果主義とは別に、行為主義でも見ることができる(たとえ結果が出なくても、過程として意味があることはある)

 民意にしっかりと耳をかたむける。評論ではなく、やるべき政策を実行して、結果を出す。こうしたことが、政治において大事なことだという。ここでは、評論ではなくとして、評論が否定で見られていて、退けられている。しかし、評論が果たす大切な役割というのがありそうだ。

 評論を言うだけなのならたやすい。言うだけなのであれば、誰にでもできる。そうではなくて、やるべき政策を実行して、結果を出すことに何よりも価値がある。そうしたとらえ方がとられているのがある。これはまったくおかしなとらえ方とは言えそうにない。当たっているところがあることはたしかだろう。本当にきちんと言われている結果が(嘘や誇張ではなく)出ていればの話ではあるが。

 何かにたいする評論ということで、それを大づかみに二つに分けることができる。そのさいの評論とは、おもに批判としてのものである。一つは当たっている批判だ。もう一つは当たっていない批判である。この二つがあるというふうにできる。当たっている批判というのはとても有益である。耳を貸すのに十分に値する。耳が痛いものではあるが。

 当たっていない批判というのもあるわけだけど、これについては、当たっていないということで反論してもよいだろうし、そんなに感情によってむきにならずにさらりと受け流すこともできるかもしれない。受け流すといっても、そうそうできることではなく、難しいときも少なくはないが、何しろ当たっていないのだから、ずれているというしかない。

 評論というふうにひとくくりにしたとらえ方にはちょっと賛同できそうにない。その範ちゅうの中にも、さまざまな価値のものがある。中にはとても有益な価値をもつ批判もあるわけだから、それについてはなるべく重んじられたほうがよい。それが重んじられずに軽んじられてしまうと、ゆくゆく公益を大きく損ねることになりかねない。

 結果を出すということについては、それが必ずしもよいことだとは言えないのがある。結果が出たことをもってして正しいと言えるのか、というのがある。たとえば、たとえ法として問題がないとはいえ、自分たちが勝てるときに選挙に打って出るというのは、それで結果は出るかもしれないが、総合として見て問題がないとはいえない。これは行為規範が関わってくるものだろう。

 英語の助動詞でいうと、行為としてできることは can なわけだけど、そのできること(許されること)の中にも、のぞましいものとのぞましくないものとがあるわけだ。たとえば、車の生産と利用は社会の中で許されているが、それが車本位社会として、さまざまな負のことがらを引きおこしている。人をひき殺してしまったり、石油燃料を多く消費してしまったり、環境を壊してしまったりする。

 結果主義として結果を重んじてしまうと、結果がねつ造されてしまうのが心配だ。それに加えて、結果が出たことの原因を自分に帰属するのはどうなのだろう。それだと自己欺まんにおちいってしまいかねないのがある。結果と原因については、たんに偶然の産物だというのもある。さまざまな要因が関わるものであり、一対一に対応しているとは言いづらい。一つの物語の域を出そうにはない。そこには少なからぬ先見や予断がはたらいている。

 大きな物語としての原因と結果がある。それとは別に、小さな物語がある。その小さな物語として(権力批判としての)評論をとらえられるのではないか。大きな物語がいまひとつ説得力をもって通用しないのであれば、小さな物語を見てゆくのがいる。それを見てゆくさいに、大きな物語で語られていることが当てはまらない結果が現実に生じているのがある。その結果を見てゆき、原因は何かというのををさぐって行く。そうすることで、大きな物語のまずさやおかしさが見えてくるようになる。

 大きな物語が一つあって、それだけが正しいというのではのぞましくない。そうしたあり方だと目的論として確証(肯定)が持たれてしまう。それを反証(否定)することがあるのでないと、開かれているとは言えそうにない。小さな物語である評論があり、そこからの批判があるとすると、それを見てゆくことによって、文脈をもちかえてゆく。そのようにすることで、大きな物語のまずさやおかしさに気づけるようになる。大きな物語で言われていることとは別に、現実とそれなりに整合する批判なのであれば、それは許容されるべきである。焦点が当てられて、くみ入れられないとならない。大きな物語として語られていることを、批判としての小さな物語によって、どんどんずらして行ければ、現実とのずれを明らかにすることにつなげられる。

 大きな物語は巨視(マクロ)による。それを森だとすると、小さな物語は微視(ミクロ)であり木であるとできる。一見すると充実しているように見える森であっても、その中の一つひとつを見ると、ひどくうつろな響きをたてている木が見うけられる。そうしたところへ目を向けないとならない。森にとって、そうした一つひとつの木は例外といえるのだろうかというと、そうとは言いづらい。むしろ森が幻想によっているとも言える。森の全体を、統合として見るのはひどく困難だ。とりつく島がない。抽象するしか手がない。そこで、ある特定の具体の木(木々)に焦点を当てるようにする。うまくすれば、そこに森がかかえる病理や暗部が浮かび上がる。

 結果を重んじるのも悪いことではないが、人間が失敗することの大きな要因として、功を焦ってしまうことによるのがある。全体として追い求めているものであれば、それが幻想の功ではないのかというのを改めて見ないと、けっきょく空手形だったということになりかねず、それだけならまだしも、深刻な負の遺産をあとに残すこともないではない。それが心配だ。

 漢方では、すぐに効果(結果)が出るのは下の薬であるという。具合が悪くなったときに使う。下の薬は、できることなら使わないほうがよいものとされるそうだ。長く使っていると、体に害をおよぼす。そうしたのとは別に、健康の増進になるのが中の薬で、長寿につながるのが上の薬であるという。これらからすると、いくら結果が出ているとしても、それが下の薬によっているものなのであれば、あまりよいこととは言えそうにない。本当の意味での改善にはなっていないと言わざるをえない。まだまだ、(例えとしてではあるが)具合が悪くて苦しんでいる人は社会の中で少なくはないというのがある。増えてしまってすらいそうだ。