美しいことが、戦争の歯止めになる保証はなさそうだ(平和を保証しない)

 ありがとう、自衛隊さん。そのような文句とともに、憲法改正をうったえる。大阪で活動しているという、美しい日本の憲法をつくる大阪府民の会は、街頭で署名活動を行なっているそうだ。この会は、政治団体である日本会議や宗教である神社関係者が主体として関わっているという。

 自衛隊の人たちに感謝するのはよいことだけど、ただ守ってくれるありがたい存在として受けとるのはどうなのだろうか。守ってくれることと引き換えに、というのがあるわけであり、ただで守ってくれるわけではない。税金が払われているのもあるし、国民を保護することは、それにともなって、国民一人ひとりを監視(観察)することでもある。

 美しいかどうかというのは、人それぞれの感じ方がある。なので、美しい日本の憲法といっても、それを感じるのは主観ということになる。客観ではない。実証によって見るのであれば、たんに日本の憲法ということは言えるけど、そこに美しいという主観の評価をさしはさむのは適していない。美しかろうと、美しくなかろうと、日本の憲法であることには変わりがないわけだ。

 かりに美しくないものなのだとしても、それとは別に、真であったり善であったりすることはできそうだ。何が真であったり、何が善であったりというのは、色々な解釈で見ることができることになる。こうであるからいちおう真だとか、こうであるからいちおう善だとかという説明が色々と成り立つ。

 憲法にとって、美しさというのは、そこまで重要なものなのかというのが若干の疑問である。美しいかどうかよりももっと重要なものが色々とありそうだ。そうしたのがあるので、美しいかどうかは、優先順位として上位とはいえず、かりに持ち出すとしても、中位または下位にあるものだろう。人それぞれの感じ方に左右される。あやふやさがある。気をつけなければならないのは、うわべの美しいものに隠された危なさだろう。美しい言葉があるとして、その陰に隠されているものを確かめて見る。美しいことへ警戒のまなざしを向ける。美しいという素朴な言葉それ自体にも、何かの魂胆を隠してしまうような秘匿のはたらきがあるのを邪推できる。

 ふつうに美しいと見なされているものとはちがったものもある。画家の岡本太郎氏は、美しさについて、ふつうに見なされているのとはちがったあり方を示していたようだ。岡本氏によると、きれいと美しいは正反対であるという。美しいはきれいであってはならず、醜悪美であるべきだと言っている。美しさは、たとえば気持ちのよくない、きたないものにでも使える言葉だとしている。みにくいものの美しさというものがあるという。『青春ピカソ』による。

 岡本氏による美しさのとらえ方は、美のなかの醜悪や不快の要素をきわ立たせてみたものだと言えそうだ。そうしたとらえ方もできるのを示している。ほかの言い方で、美は乱調にあり、なんていうのもある。乱調というといささか剣呑だ。危なっかしい。そうしてみると、あまり美しいかどうかにはよらないで、そのほかの色々と重要なことで憲法を見ていったほうがさしさわりが少ない。