構造的暴力による抑圧があり、その緊張による対立がありそうだ

 何人死んだんだ。そうしたやじを飛ばす。沖縄で在日米軍機の事故が相次いでいることについて、そのことを深刻だとする。その深刻さによる受けとめへのやじが国会において飛ばされた。このやじがとり沙汰されたことにより、(やじを飛ばしたとされる)自由民主党内閣府副大臣の人はその役職を辞任することになった。

 在日米軍機の事故において、それによって現地の人が亡くなったりけがをしたりしたら、そうとうな問題になる。これは、そうしたできごとがおきた後の話だろう。それとは別に、そうしたできごとがおきる前の話ができる。できごとがおきてからでは遅いわけであり、手遅れともいえる。できごとがおきてしまう前に何とかすることがいる。そのようにして、事前と事後に分けて見ることができそうだ。事前にできることとして、よからぬできごとがおきないようにする対策があるとすると、それをやらなければならない。それをやらないのは怠慢だろう。

 やじを飛ばした議員の人は、忖度をする方向がまちがっていそうだ。忖度をするべきは、自分の属する党の長にではなくて、日本全国にまんべんなくそうするのがよい。中央のものさしで見たらまちがうことがあるわけだから、それを持ち替えて、周辺におかれている人たちのものさしでも見ないとならない。そうでないと、ものを見あやまってしまうようになりかねない。

 中央のものさしだと、権力に近いわけだから、そこへの批判はとられづらい。甘くなる。そうしたふうであると、判断が狂ってしまうことがある。へんに卑屈になったり、ごう慢(ヒュブリス)になってしまったりする。そのようになるのを避けるためには、権力に近いことをもってしてよしとするのを戒めないとならない。そこの戒めが不十分だと、権力からの利得を得ようとせんとして、まちがった忖度をはたらかせてしまうことになるのがある。

 議論は国会という屋内で行なわれるわけだけど、それは少なからず屋外の、周辺におかれている人たちの代弁でもある。そうしたつながりがあるものだろう。そこをなおざりにしてしまうと、社会の中のなげきの重みをすくいとれそうにない。すくいとられないことで、社会の中にどんどん声なき声のなげきの重みが増してゆく。そうした重みは、ないわけではなく、あるにもかかわらずきちんとすくいとられていず、そのままでよしとされてしまっているものだろう。本来はそうであるべきではないのにもかかわらず、不当に阻害されたままになってしまっている。それに甘んじさせられている。ひどくなれば、そのまま淘汰(排除)されようとしているのである。そうしたしうちを受けるのは特定の個や部分であるとして、全体は不真実(虚偽)であると言わなければならない。