思うつぼだという主観の思い

 町議会議員の人がフェイスブックに投稿した記事が、とり沙汰されている。その記事の中では、特定の国会議員を名ざしして、極悪非道の在日韓国人だなどとしている。その人たちを、両足を牛にくくりつけて、股裂きの刑にしてやりたい、というふうに言う。また、論外のアホであるとして、ポア(殺害)して欲しいと思う、などともしている。

 町議の人は、記事がとり沙汰されたことを受けて、反省の弁を述べたそうだ。憎悪表現や人権侵害について不勉強であり、自覚がなかったと述べている。その一方で、特定の国会議員の人たちについては、彼らは工作員であるとしている。自分をおとしいれようとする勢力があり、もし自分が議員を辞職したら、そうした勢力(左派)の思うつぼだ、ということである。

 この町議の人は、陰謀理論によっているというふうに見なせる。この陰謀理論によることで、弁証法のようなものがはたらいていそうだ。おそらく、従軍慰安婦の問題について、日本が不当に韓国などから責められているのに不服がある。そうした動機がはじめにあると思うんだけど、股裂きの刑にしてやりたいとか、ポア(殺害)して欲しいとかいうことで、かえって以前に日本が他民族によからぬことをしでかしたおそれがあるのを裏打ちしてしまってはいないだろうか。逆効果になってしまっている。

 従軍慰安婦の問題などについて、日本が不当におとしめられている。まったくの潔白なのに、嘘を言いふらされている。そうしたのが陰謀理論ではとられる。これについては、心情としてわからなくはないものではあるし、潔白であってほしい部分があるのはみな同じなのではないか。しかし、そうであってほしいという願望が必ず現実になるわけではないから、そこは疑うことがいる。願望が虚偽だったとしたらそれが問題だ。

 町議の人において、特定の情報の入力がなされ、それについての思考回路がとられ、そしてそこからの出力(表現)にいたったと見ることができる。はじめの情報の入力が、偏っていたおそれがある。自分の思考回路を補強する情報だけが入力されてしまう。そうしたことはありがちである。そうなってしまうと、補正される機会がもてない。思考回路が強化されつづけることになる。どこかの時点で、それがなるべく改められればよさそうだ。

 出力(表現)を疑ってみるのがあってもよい。たまには自分の出力したのを疑ってみるのである。人間はだれしも完全に合理によるのではなく、限定されているのがあるので、まちがった出力をしていることがある。そのようにしてみることで、独断におちいるのを避けられる。うまく行けばの話ではあるが。

 思考回路として、属性(キャラクター)で見てしまうのがある。これで見てしまうと、実在はどうなのかが見落とされやすい。ある民族があるとして、その民族の実在はどうなのかというと、さまざまな人がいるものだろう。そうしたさまざまなあり方が捨てられてしまい、象徴されると属性になる。これは幻想によるものでもある。

 人種や民族とは幻想であり、科学によるものとは言えない。人類とは、もともと一人の先祖となる二足直立歩行をした猿人から来ている。一人の同じ先祖から来ているのが、今の数十億にのぼる人たちである。それらを、それぞれの民族とか人種に分けることもできるのがあるけど、せいぜいが便宜のものであり、本質とは言えないものだろう。いろいろな民族や人種の要素を含みもつのが、一人の人間だと言えそうだ。

 辞職するのは左翼の思うつぼだということだけど、町議の人はいったい何と戦っているのだろうかという気がする。もともと憎悪表現を投稿しなければ、とり沙汰されることはなかったわけだし、物議をかもすこともなかった。だから、左翼がどうとかというのはあまり関係がなさそうだ。それに、かりに左翼の思うつぼを避けたとしても、左翼以外のところの思うつぼになっている、ということはないだろうか。この思うつぼとは、ある特定の立場からの呼びかけに応じてしまっている、ということである。自分が気がついていなくても、そういうことはあるものだろう。

 ポア(殺害)というのは、オウム真理教が用いていた言葉だとされる。そうであるから、オウム真理教に通ずるような気がしてしまうのもたしかである。オウムでは、ポア(殺害)することが、その人にとってよいことなのだ、といったような理屈を用いていた。これは詭弁にほかならない。他者危害の原則に反している。

 日本という国がとても大事であり、それをおとしめようとするかのように見うけられるのは、たとえ少しであっても許せない。そうしたのはわからないではない。そうしたのは一つの動機であり正義だというのはあるだろうけど、正義が反転して悪のようになってしまうことは少なくない。そこに気をつけられたらよさそうだ。日本という国がおとしめられているのは、日本および日本人が被害を受けているとできなくはないが、それによって特定の人に憎悪表現をすることで、自分が加害をする側に回っているおそれがある。自分が加害をしたのでは、元も子もない。

 加害をするといっても、日本や日本人がおとしめられているのを、黙って見すごすことはできない。そうした意見もあるかもしれない。それについては、そうした気持ちが生じるのはわかるわけだけど、気持ちによってつっ走ってしまうのはまずいということができる。そこに歯止めをかけられればのぞましい。たとえば、他民族とか、特定の思想の立場とかは、偶像(イドラ)や幻影であるおそれが低くない。そこを差し引いておかないと、まちがった判断をしてしまうことがある。判断がまちがうと、究極の(原因)帰属の誤りになりかねない。これは特定の民族や集団を差別することである。

 本音によりすぎてしまうと、建て前が失われてしまう。そこのあいだのつり合いがとれたほうがのぞましい。社会は基本として建て前で動いているのがある。そこをないがしろにして、本音主義のようになってしまうと、危ないところがある。

 本音というのは一人称によるものだとできる。それだけではなく、二人称や三人称の視点も持てればよい。関係性として、我と汝(なんじ)と、我とそれ、といったのがあるという。これは思想家のマルティン・ブーバーという人によるものだそうだ。本音が行きすぎると、我とそれのあり方になってしまうことがある。それというのは、物のようにあつかってしまうことである。そうではなく、我と汝のあり方にできたほうがよい。これは理想論であり、現実には、たとえば経済において労働者が物のようにあつかわれているのなどがあるのはたしかである。それが当然のようになってしまっている。