(かくあるべしの)当為としての代弁と、実在とのあいだに、ずれや隔たりがありそうだ(当為としての代弁だけでおし進めるのには、個人としては反対である)

 君たちは憲法違反かもしれない。そうではあるが、何かあったら命をはってくれ。これではあまりにも無責任である。自由民主党安倍晋三首相は、自衛隊について、このように述べている。この発言について、すべてには賛同できそうにない。とりわけ、いちばん最後の、あまりにも無責任であるの箇所には違和感をおぼえる。

 憲法違反かもしれないけど、何かあったら命をはってくれというのは、のぞましいことではないというふうに首相は見なしているのだろう。そうあるべきではないということである。これは、かくあるべきという当為(ゾルレン)についてを言っているということができる。

 かくあるべき当為というのは、現実の実在(ザイン)そのものではない。首相が述べている、かくあるべしの当為には、弱点があるというふうにできる。というのも、実在の自衛隊の人(や元自衛隊だった人)たちがどのように思っていたり感じていたりするのかは、定かではないのがあるからだ。それぞれの人に、それぞれの思いや感じ方があるだろう。そこが十分にふまえられているとは言えない。父権主義(パターナリズム)になってしまっているおそれがある。

 首相の言っていることは、一見すると自衛隊の人たちをおもんばかっているかのように受けとれる。しかし改めて見ると、そうとも言い切れそうにはない。というのも、もし本当におもんばかるのであれば、ちがったふうに言うことができるのがある。たとえば、自衛隊の人たちに命をはらせるようなことを何としてでも避けてゆきたい、というのがありそうだ。ほかには、もし万が一なにかがあれば、われわれ政治家がじっさいに体をはって危険な現場におもむくつもりである、なんていうのだと説得力が多少はある。本当にそうしろというわけではないが、こうしたおもんばかり方もできる。

 これではあまりにも無責任である、と首相は述べているけど、それを差し引くとして、まったく無責任ではないとは言えないかもしれない。その点については認めることができるのがある。そうしたのはあるとして、まったく無責任であるというふうに断言するのはどうなのかというのがある。そうして断言するよりも、色々と問いを投げかけることができる。

 色々な問いというのは、たとえば、憲法違反かもしれないというのは一体どういうことなのか、がある。また、何かあったら命をはってくれというのは一体どういうことなのだろう。何かがなければ命をはらなくてもよいわけだから、何かがないように全力を注いだらよさそうだ。そして、あまりにも無責任であるというけど、このさいの責任とは一体どんなことなのだろう。何をもってして無責任というのだろう。そうしたことが若干の疑問である。

 憲法違反かどうかについては、憲法違反だと断言する人もいれば、いやそうではないとする人もいそうだ。この点については、解釈の領域となるものだろう。解釈の領域だと、色々な見かたが成り立つ。いやそうではなく、答えは一つだけしかない、というのもあるかもしれないが、そうしたのではなく、幅をもたせることができるのもある。そうした幅については、理由(reason)がどうなのかということで見てゆくことができる。理由や観点により、相互に了解ができればのぞましい。理想論ではあるが。

 憲法違反かもしれないというのであれば、逆に言えば、憲法違反ではないかもしれない。そこをはっきりとさせたいということなのだろう。そうしてはっきりさせたほうがよい、とするのにも一理ある。ただ、そのさいの、はっきりさせるさせ方については、人によって色々な意見がありそうだ。総論賛成、各論反対、といったふうになる。無理やりにはおし進めづらい。そうしたのをふまえると、はっきりとさせないでもよいのではないかという気もする。色々と問いを投げかけていって、みなで認識を少しずつ深めて行けばよいのではないかというのがある。

 敵の問題と、敵をつくることの問題がある。敵をつくることの問題とは、敵をつくってしまうことの問題である。つくるとは対象化であり生産だ。敵をつくってしまうことで、敵を敵としないものを敵とすることになる。ちょっとややこしい話ではあるが。これは何に由来するのかというと、もともと国民国家が異なものを排除して差別するはたらきを持つことによっている。そうしたのぞましくないはたらきを少しでも抑えるためには、敵をつくらないようにすることがあってよい。これはおもてなしの精神である。

 そうしたおもてなしの精神を発揮するのは、とりわけ危機の生じている状況では易しいこととは言えそうにない。易しいことではないが、一つには、国家を実体化するのを避けるのができたらよさそうだ。国家とは共同幻想であり、幻想性をもつ。想像の産物である。想像であるということは、敵もまた想像されたものであるということができる。かつては、鬼畜米英として、敵とされていたものが、今ではまったくそう見なされてはいない。そうしたイデオロギーのはたらきに気をつけられればのぞましい。敵の問題として、確証(肯定)されるのだけではなく、敵をつくることの問題として、反証(否定)されるのがあってもよいものだろう。

 味方と敵を区別する分類点を揺るがすことができたらよい。何が味方の内包(本質)であり、何がその範ちゅう(集合)に当たるのか。または、何が敵の内包(本質)であり、何がその範ちゅう(集合)に当たるのか。味方や敵として言われる語の、指示するものとは何だろうか。そうしたことを改めて見ることができそうだ。味方と敵は、独立した客体としては意味がない。なので、関係によるものである。とすると、反実在によるものだとできそうだ。少なくとも、実在すると見なすのをいったんカッコに入れることができる。

 たんに名だけということがある。その名というのが、恣意によって対象と結びつく。そうして対立することになるのだろう。スポーツの試合で、どことどこが戦い合うのでも成り立つといったようなあんばいである。恣意(気まま)に結びつけられるという形式によって、スポーツの試合が成り立つ。記号として見ると、そうしたことが言えるかもしれない。