属領から脱するさいの、対象を変える試み

 アメリカの占領のさいの、押しつけ憲法だ。こうした見かたがある。これは、アメリカによって(再)属領化されているとできる。これをよくないものとして、押しつけられた憲法を少しでも改めることで、脱属領化する。

 押しつけ憲法論では、見落としてしまっている点がある。見落としているというのは、アメリカによる在日米軍基地の問題である。この米軍基地は、(再)属領化の産物であるとできる。そのようにすることができるので、押しつけられた憲法はよくないが、米軍基地はそのままでよい、とするのは、一方ではアメリカから脱属領化しようとしていて、他方ではアメリカによる属領化をよしとしてしまうことになりかねない。ちぐはぐな印象があるということができる。

 政権与党としては、なんとかして押しつけ憲法を改めようとして、そこに大きな力を注いでいる。そして、アメリカと日本との同盟はかつてないほどに強いとして、それを改めようとはしていない。この二つのあり方は、逆でもよいのではないだろうか。力を注ぐべきは、アメリカと日本との同盟について、その内容を改めて行くことにする。そのようにできたらよいのがありそうだ。

 押しつけ憲法があるのなら、押しつけ基地もある。押しつけ基地は、沖縄にとくに集中しているのがあるので、押しつけの押しつけのように、二重の押しつけになっている。ここを少しでも改めることができればよい。ここの(再)属領化を変えることができれば、脱属領化につなげることができる。自民党の悲願は憲法改正だということで、それが強調されているわけだけど、そうではなくて、基地についての脱属領化をするのに転換してはどうだろうか。今からでもそれをするのに変えることはできる。まったく基地を日本から無くすというのではなくても、少しでも基地の負担に苦しんでいる地域の負担を減らせればよい。

 押しつけ憲法といっても、憲法は硬性化されていることに意味はある。無意味なわけではない。なので、あるていどは属領されていてもよいわけだ。そうなっていることで、逆に国民は脱属領化されるところがある。自己幻想と共同幻想は逆立する、と思想家の吉本隆明氏は言う。

 政府に軍事権が与えられていないことで、政府は(再)属領されるわけだが、それによって、戦争につっ走ることを防げる。外交(または金銭)で何とかせざるをえない。そうしたのが骨抜きになって変えられようとしているのはあるが。政府はあわよくば軍事権を手に入れようとしている。しかしその軍事権が善用される保証はない。戦争がひとたびおこれば、本人の責任をともなわない不幸の最大のものが、国民の上にふりかかってくる。

 普通の国には軍隊があるのだから、日本も持つようにするべきだ。持つことができるようにきちんと存在を認めるべきである。そのための憲法の改正なのだから、正しいことはまちがいない。そのように言うこともできる。それについては一理あることはたしかで、完全に否定するわけには行かないものではある。

 軍隊は物質によるハードパワーである。それとは別に、文化による非物質のソフトパワーもある。このソフトパワーのあり方が、とても弱っているのではないかというのがはなはだ心配だ。この力がしっかりとしていることによって、戦争をおこさせないようにくい止めることができる。このくい止める力がとても弱っているような気がしてならない。

 他民族への憎悪表現のデモが、都市では行なわれている。これは悲しい現実だ。ソフトパワーの弱体化を示していると受けとれる。万人が争い合う、自然状態(戦争状態)に近づいているのだ。他国からの脅威をさかんにあおり立てて、不安をかき立てる。これは自然(戦争)国家である。そうしたことをそのままにするのはまずい。まずいあり方を大幅に改めるのでないのなら、とてもではないけど危なっかしすぎて、軍事の力を正式に認めて持つことがよい方にはたらくとは思えない。

 戦争という大いなるあやまちや犠牲による不幸について、省察したり表現したりした先人の貴重な努力が、あまり生かされていない。都合の悪いことへの忘却がうながされ、想起が十分にとられてはいない。そうした文化の力よりも、物質の力にすがろうとしている。

 日米地位協定では、日本の法律がアメリカの基地内には適用できないようになっているという。基地の中では、日本の主権はまったく放棄されてしまっている。おまけに、思いやり予算として経済において支援をしている。こうしたのを少しでも改めることがあってもよさそうだ。そうしたことをしないで、アメリカは手の届かぬ超越のかなたにあるとして、それを拝みつづけるようなことであれば残念だ。大に事(つか)える事大主義として、アメリカにつかえるのが、日本にとってよいことなのかはそうとうに疑うことができる。ぴったりと一体化しようとするのは危険な気がしてならない。

 押しつけ憲法のよいところと、押しつけ基地の悪いところがある。それらに焦点が当てられればのぞましい。とりわけ押しつけ憲法については、その逆もあるわけだけど、その逆が強調されすぎてしまうと、よいところが無いことになってしまう。そうして無いことにするのではなく、目だちづらいけどよいところにきちんと焦点が当てられればよい。そのようにできれば、たんによいか悪いかというのではなく、よいのをさらに細分化して、悪いのをさらに細分化して、といった見かたがとれる。細分化というのは、よいことの中にもさらによいと悪いがあり、悪いことの中にもさらによいと悪いがある、といったことである。入れ子構造になっている。