わざわざ人工知能を持ち出さなくても、人間が判断できそうなものである

 同じような質問をする。そうしたのは、人工知能(AI)によってはじいてしまうのがよい。将来においてはそうしたのがあるとよいとしたのは、自由民主党小泉進次郎議員である。与党にたいして野党が同じようなことを質問するのは、無いほうがよいというわけである。

 もし自民党が与党ではなく野党になったとしたら、小泉議員は同じことを言えるのだろうか。そこが疑問である。同じことを野党が質問するのだとして、それは野党が悪いからだというふうには必ずしも見なせない。与党という立場にいることで、野党のくり返しの質問はおかしいという見なし方になっているのではないか。立場を反転させてもまったく同じことが言えるようでないのなら、説得性はやや薄い。

 同じようなことを野党が質問するのは、一つには、与党がきちんと質問に受けこたえていないのがあるだろう。きちんと受けこたえていないのだとすると、何回でも質問をせざるをえない。受けこたえにはなっていませんよということで、そこについてもできればそのつど確認しないとならない。とりあえず形式として受けこたえればそれでよい、ということにはならないのがある。何かしゃべればそれでよいというのではなく、実質として受けこたえになっているかどうかが肝要だ。

 同じような質問をするのとは別に、同じような質問をしなかったとしても、それであればきちんと受けこたえてくれるのかというのがある。というのも、そもそもきちんと受けこたえようとする姿勢がないのであれば、同じような質問かそうでないのかは、さしたる意味があるとは思いづらい。根本の姿勢として、きちんと受けこたえようとはせずに、はぐらかそうとするのがあるとしたら、そこが改められることがいる。

 一つのことにばかりこだわって、そのことをくり返し質問するのでは、いっこうにほかのことが前に進まない。そうしたのがあるとも見なせる。その一方で、いまだにきちんと片づいていないことから目をそむけ、中途半端に背をそむけてしまうようだと、それもまた放置したままにはしづらい。中途半端にしか片づいていない疑惑を甘めに見て許してしまうこともできなくはないが、そこに創造性があるのかははなはだしい疑問符がつく。創造性に疑問符がつくというのは、大目に見てしまうと権力がスポイル(腐敗)されるのがあるからだ。いかにやっていることが正しいかとして、よいしょして、ほめて、気をよくして、にこにこし合うのは、仲間うちだけでやっていればよいことだ。仲間うちで互いに高揚して、陶酔して、栄光化するのは自由だ。しかしそれを公の場でやる必要はないだろう。

 人工知能でなくてはできないことであれば、それによるようにするのも分かるわけだけど、人工知能でなくてはできないことでないのなら、できるだけ人間がやればよい。もし人間ができないようであるのなら、またはやる気がないのなら、そもそも人間がまつりごとにたずさわることの意味はあるのかがいぶかしい。人間の存在理由(レーゾン・デートル)とははたして何だろうかという気がしてくる。かりに人工知能に判断をあおぐのだとしても、それはあくまでもどこが野党でどこが与党だとしてもといったような、任意の視点によるのでないと、中立にならない。中立によるとすると、いまの与党を利するような結論が出てくるとはちょっと思いづらい。もし人工知能がきちんとしたつり合いのとれた結論を出せるとすればの話ではあるが。