開会式への出欠

 韓国で冬季五輪が開かれる。この開会式に、自由民主党安倍晋三首相は出席せずに欠席する意向だと言われている。一つの意見として、開会式には首相は出席するべきではない、なんていう声もある。もしそうして欠席するのだとすると個人としてはちょっと残念だ。できれば出席したほうがよいのかなという気がするのである。

 隣国で冬季の五輪が開かれるのだから、そこの開会式に出席しないのであると、自然であるとは言いがたい。五輪は平和の祭典と言われているものであるため、その平和の理念というのを重んじることができたらよい。開催される期間はほんの数十日だけである。

 従軍慰安婦の問題についての日韓合意を、韓国はきちんと理解しようとはしていないし、また前に進めて行こうとする姿勢が見えない。そうしたことから、韓国での冬季五輪の開会式に首相が出席するのはためらわれる。こうした見かたは、完全にまちがっているものとは言えそうにない。しかし、別の見かたができることもたしかである。

 はたして、韓国で開かれる冬季五輪の開会式に、首相が出席をすることは、けしからんことであり、あってはならないことなのだろうか。それについては、そのように見なすこともできるが、そうではない見なし方もできる。もし首相が開会式に出席するとしても、とくにのぞましくないことがおきるわけではない。

 首相が開会式に出席するのならば、韓国をつけ上がらせることになる。このように見なすのでなくても必ずしもかまわない。たとえ首相が開会式に出席したとしても、それをもってして韓国をつけ上がらせることにはならないとも見られる。お墨付きを与えることには必ずしもならない。それはそれ、これはこれである。

 それとこれとを切り分けられるとすれば、ともに平和という理念をできれば共有しましょうという意思を、一時のことではあるにせよ、建て前として持つことに少しはつながるのではないか。小異を捨てて大同につく、といったあんばいだ。いや、従軍慰安婦の合意は決して小異などではなく、一ミリメートルもゆずることができない、ゆるがせにできないことだ、という見かたも中にはあるかもしれないが。

 日本と韓国とのあいだで、従軍慰安婦のことについて折り合っていないのがある。それがあるのだとしても、だからといって、そのことを五輪につなげて持ちこむことがいるのかが若干の疑問である。というのも、そこにつなげて持ちこんでしまうと、器が小さいことを示してしまうことになりはしないかとの危惧が持てるのがある。

 せめて開催されている期間だけでも、日ごろのこだわりは捨ててしまえるほうが、どちらかというと器が大きいといえそうだ。それぞれを内面において切り分けられて、整理できていることをあらわす。大局の見地に立つ。この器の大きめのあり方は、おもてなしの精神といえるのではないかという気がする。じっさいにはこちらが向こうへおもむくのだとすると、おもてなされに行くわけではあるが。