他国に肩入れする、という意味づけ(見なし方)

 かりに、日本と中国とが軍事衝突をする。そうなったら、朝日新聞は中国の肩をもつにちがいない。このことには自分の首を賭けてもよい。作家の百田尚樹氏が、そのようなツイートをしていたのを見かけた。このツイートについては、個人としてはちょっと首をかしげるのがあるし、肩をもつことはできづらい。

 百田氏のツイートは、もしものさいの仮定の話である。なので、事実にもとづかない話である、何ていうこともできるだろうか。もっとも、仮定とはいっても、まったくありえない話ではないとすると、そこまで突飛なものではないということができるのも確かである。そのうえで、仮定の話ではあるから、現実とは距離があるのはたしかだ。

 日本と中国とがかりに軍事衝突してしまうとすると、その時点で、どちらも悪いのではないかという気がする。なので、どちらかに肩入れするという話にはちょっとなりづらい。どちらに肩入れするにせよ、ある程度まちがいになってしまいそうだ。

 軍事衝突といっても色々なものがあるだろうから、それぞれによってとらえ方がちがってきそうだ。一方的に中国が日本に攻めてくることも、可能性としてはないではないことだろう。そうしたことも含めて、いざことがおきたとしたら、朝日新聞はどのような態度をとるのだろうか。これは一概には決めつけられないものだろう。こうだとして決めつけてしまうのだと、必然として見なすことになる。確証をもつことになる。しかしそうではなくて、色々な可能性があるというふうに見なすのが適していそうだ。

 朝日新聞の読者は日本の敵だというのはどうなのだろうか。そのようにして、朝日新聞やその読者を敵だと見なすのは、対人論法となっている。これだと、属性(キャラクター)として見ることになるし、発言者や特定の人を叩くことになってしまう。そうではなくて、発言の内容にまちがいがあればそこを部分として指摘すればよい。そして、どういうことで朝日新聞がある主張をして、またそれを読者が受け入れるのか(または反発するのか)というふうに、理由を見てゆくことができればのぞましい。

 一方的に敵だと見なしてしまうのだと残念だ。敵は偽であり、味方(友)は真であるというふうに、はっきりとは分けづらいのが現実であるといえる。そのようにはっきりと分けてしまうと、非寛容になってしまう。好意がもてなくなり、敵意が高まってしまうことになる。このように敵意が高まると、話し合いができづらい。発言者には、それなりの状況というものがそれぞれにあるのだから、そこがくみ入れられることがあってもよい。そこがくみ入れられないと、敵は敵だというふうに同語反復(トートロジー)におちいらざるをえない。これは恒真命題である。そのようにして、敵を仕立てあげてしまうのである。

 敵か味方(友)かどちらかだというのでは、二元論になってしまう。それだとあれかこれかのどちらかだけしかないので、〇と一の離散(デジタル)によるといえそうだ。そうではなくて、連続(アナログ)で見ることができる。離散によって、あれかこれかの二元論をとってしまうと、あれでもこれでもない立場である、批判の視点が隠ぺいされてしまう。このさいの批判の視点というのは、批判の声をあげることだけでなく、(権力者などの主張を)批判により受けとるようにするものである。権力者が言っていることなどについて、それを批判により受けとることがないのであれば、何にでもはいとうなずいて従うイエスマンとならざるをえない。これは権力の奴隷である。

 敵というよりも以前に、社会の中には矛盾があり、さまざまな遠近法がある。それはけっして不自然なことではない。みんなが仲よく協調するのは理想だけど、じっさいにはそれはできづらく、闘争を避けづらい。何かについて協力する人もいれば、非協力な人もいる。それによって、遊具のシーソーがつり合いをとるようにして、危険性が分散(ヘッジ)されるのではないだろうか。みんなが味方なのであれば、あるものにだけ一点ばりで持ち金をすべて賭けることになり、それはきわめて不安定なあり方だ。こうした一点ばりの賭け方は、一つには権威主義によるものである。

 権威主義では、一見すると何ごともないとしても、いざというときに極めてもろい。ぜい弱性がある。多様性がなく、画一になってしまうせいなのがある。長に権威を振りかざされると、正しい判断がききづらくなる。判断が狂うことで、まちがった行動につながってしまいやすい。そうしたのがあるのに加えて、権力への信頼は専制主義に結びつく。権力者(とそのとりまき)という強いオオカミと、それ以外の弱い羊、といったのぞましくない関係になってしまう。民主主義は、(それぞれがちがいをもった)弱い羊どうしの兄弟性によって営まれるのがふさわしいものである。強いオオカミが長としてあらわれるのは危ない徴候だ。

 朝日新聞が陰謀勢力として、日本をおとしめている。そうした見かたは正しいものなのかというのが疑える。この見かたによるのだと陰謀理論になってしまう。陰謀理論によると、強い確証をもつことになってしまうが、そうではなくて、反証をもつこともいる。強い確証は認知の歪みであるおそれがいなめない。独断と偏見をもつことになるとすると、過度の一般化をすることになるのがある。そうした一般化を避けられればのぞましい。

 朝日新聞が日本をおとしめているというよりは、日本が落ち目(右肩下がり)だから朝日新聞が不当に悪玉化されている。そうしたふうに見ることもできるかもしれない。悪玉化の現象がおきてしまっているわけだ。その標的として、朝日新聞が不当にやり玉にあげられてしまっているふしがある。そうして朝日新聞が不当に悪玉化の現象をこうむることで、日本という国は善玉化され、上げ底になる。いっぽうは濁であり、他方は清となるようなあんばいだ。しかし現実には、濁なら濁だけだとか、清なら清だけといったものはありえづらい。そうしたものはおおむね虚偽である。

 悪玉化されやすいのは、同化圧力にそぐわない質をもったものである。そうした質は異質性(ヘテロジェネイティ)であるといえる。異質性や特異性は、同質化されたものの中ではなかなか受け入れられづらい。抑圧されがちである。そのようにしててっとり早く抑圧したりうとんじたりしてしまうと、全体がだめになってしまうようになりかねない。同質ばかりというのは分身の集まりであり、のぞましいあり方ではなく恐ろしいものである。

 朝日新聞が陰謀勢力として日本をおとしめているのではなく、その逆が正しいともできなくはない。逆が正しいのを、まちがって反対にしてとらえてしまうのは、ありえないことではない。そうしたのがあるし、朝日新聞と日本の国とは、そこまで相関が強いものなのかが、今ひとつ定かではない。この二つの結びつきは、表現によってつくり上げられるものだから、人為で構築された思いこみだというのも成り立つ。あらためて見れば、二つの結びつきはさしてなく、とくに影響関係がないというおそれもある。

 日本という物語は、一つしかあってはならないというのではなく、複数あったほうがよい。そのように見なすことができそうだ。一つしかあってはならないのであれば、物語が絶対化されてしまい、一神教のようになる。複数あることが認められるのなら、物語を相対化することができて、多神教のようにできる。他国から見た日本というのも、一つの物語であり、それも一つの日本(の姿)であるということができる。遠近法主義をとることができるとすると、そうしたとらえ方がなりたつ。