単純な弁証法のようになってしまうと、賛同することはよく、批判することは悪い、としてしまいかねない(唯一の正解がただ一つだけ確実にある、という幻想におちいりかねない)

 性暴力の被害を告発する。それが me too 運動である。その運動の行きすぎを危ぶむのは、カナダの作家のマーガレット・アトウッド氏である。アトウッド氏は、このように言う。過激派と穏健派がいるとすると、過激派が勝るものだ。そのようにして運動が行きすぎるのであれば、必ずしもよいことではないというわけである。

 アトウッド氏の主張をふまえてみると、たしかに、me too 運動に部分として問題があるというふうな見かたが成り立つ。こうして、運動に部分として問題があるとするのは、性暴力の被害がおきることに問題がないとすることではない。性暴力の被害が生じるのは大きな問題である。それとは別に、部分としてではあるが、運動に問題があるというふうに見ることができる。全面として問題があるというのではない。

 運動にまったく問題がないということにはならない。そのような見かたができそうだ。まったく問題がないという前提に立って運動を行なうこともできるわけだけど、その前提は疑うことができるものだと見なせる。容疑のかかった人がいるとして、その人について、有罪推定の前提で見てしまうのはどうなのかというのがある。原則としては、無罪推定によって見ることがいるというふうに言うことができる。疑わしきは罰せずである。公益に関わる権力者であれば別だけど、一般人についてはこの原則を当てはめることがあるのがのぞましい。

 暴力を振るった人が罰せられることがいるというのはあるわけだけど、それはなるべく最小のものであるのであればよい。そうではなく、最大であるようにするのだと、厳罰主義のようになってしまう。最小ではあるが、最大の効果がある、なんていう罰がよさそうである。そんな生ぬるいことを言うのはまちがっている、という意見もあるかもしれない。たしかに生ぬるいのはあるわけだけど、罰するのとは別に、まず不当に罰せられないようであるのがよいのがある。もし不当に罰せられてしまうおそれがあるのだとすると、そこにできるだけ焦点が当てられることがいる。それは立場を変えてみれば、誰にでも当てはまることだからである。無実の罪を着せられてしまうおそれは誰にでもある。

 me too 運動に水をさしてしまうのであれば、せっかく火がついたのを駄目にしてしまう。そうした懸念もある。そのうえで、運動に参加する人である被害者は味方であり、それによって告発を受ける人は敵である、としてしまうと、敵対関係になってしまうのがある。運動に賛同する人は味方で、批判する人は敵だとするのも、関係が敵対となる。これだと、立場が固定してしまう。このように固定してしまうと、どちらかというとのぞましいとは言えそうにない。内集団と外集団として立場が固定されることで、善(内集団)と悪(外集団)のようにぶつかり合ってしまうと少しやっかいだ。

 関係が敵対になってしまうと、自然状態(戦争状態)になってしまう。このあり方はできるだけ改められることがいるものである。自然状態ではなく社会状態にすることで、法に則った形でものごとが解決されるのがのぞましい。そうした形では解決がむずかしいからこそ運動をしているのではないか、という意見もあげられる。それについては、運動という一つの手段だけによらず、他の手段もとれるのがありそうだ。手段は一つだけに限られるものだとは言えそうにはない。一つだけに限ってしまうと固着になってしまうのがある。いくつかの手だてをとり上げてみて、それらのもつ利点や欠点を比べるのができたらよい。

 運動に賛同するか、それとも批判をするか、というのだけだと、二元論になってしまう。もうちょっと中間のあり方を色々ととることができるとすると、それを見てゆくのがあるのがのぞましい。そうしたほうが、より妥当な推理にすることにつなげられるのがある。二元論を避けられる。

 メタ認知をするさいには、熱だけでなく、冷やすこともあるとよいのだという。メタ認知は、認知についての認知である。それでいうと、運動にたいする熱があるのはよいことである。感情や想像のはたらきによって、行動をとってゆく。そうした熱によるものがあるとして、メタ認知のもう一つの冷やすことがあるとのぞましい。冷やすのがあることによって、臆見(ドクサ)から距離をとることのきっかけとなる。

 いったん判断停止をすることにより、臆見(ドクサ)から距離をとるようにして、冷やしてみるのも手としてはとることができそうだ。裁判の制度が唯一にして最良の手だというわけではないだろうけど、それは一つの冷やすための手ということもできそうだ。他者の視点を介在させるという点においてである。

 被害者が、被害を告発する。そこにおいて、完全に真実が語られているとすると、記述主義になってしまいそうだ。人間のすることであるから、まったく完全に誤りがないとはできそうにはない。不完全であることを免れることはできそうにない。言葉は事実を鏡のようにそのまま映すものではないのはたしかだ。現実を間接として示すものである。

 発話行為論でいわれる、事実(コンスタティブ)と遂行(パフォーマティブ)があるとして、それを完全に分かつことはできづらく、遂行が少なからず入りこんでしまう。事実の中に、価値や規範が少なからず入りこんでしまう。そうした面がありそうだ。直接の現前ではない。間接の表象とならざるをえない。これは、真か偽かですっきりと割り切れるのではなく、確実に断定はしづらいということである。そのうえで、偽の証拠がない限りは、真の前提に立つことはいるだろう。

 運動をすることにまったく意義がないというふうには言えそうにない。少なからぬ意義があることはたしかだろう。それにくわえて、被害者ができるかぎり救済されることがいるのは確かだろうし、そもそも被害がおきないようであることがいるのもある。そうした処置が十分にとられないのがあるとすると、そこに問題がないというふうには言えそうにない。事前についてと事後についての両方において、打つことがいる対策を色々と挙げることができそうだ。