誇りというのはあるだろうけど、誇りでないものを見ないとならないのではないか

 同じ日本人として、誇りに思う。自由民主党安倍晋三首相はこのように述べている。リトアニアに訪問した首相は、杉原千畝記念館を訪れたという。第二次世界大戦において、ナチスドイツのホロコーストからユダヤ人が逃れようとするのを手助けするために、命のビザを発行したのが杉原千畝氏であるそうだ。

 命のビザを発行したのを受けて、戦後、外務省は杉原千畝氏に職を辞することを迫ったという。退職を迫ったのである。当時の日本政府の指示に従わずに背いたからだろう。朝日新聞の一九九五年四月一五日の記事に、そのあらましが記されている。名誉回復と題して、杉原千畝氏の奥さんである杉原幸子氏の主張が載っているのを、ツイートで見かけた。

 首相は、杉原千畝氏を同じ日本人として誇りに思うとしている。誇りに思えるような大変にすばらしい日本人であることはたしかだけど、そうした日本人がいることで、日本という国はすごいだとか、日本人はすごいといったようなとらえ方をするのであれば、それはどうなのだろうか。そうした文脈でとらえることはあまり適していないような気がする。

 杉原千畝氏がすばらしいのは、当時の日本がまちがったことをしたことに端を発している。対照としてとらえることができる。日本がすばらしかったから、杉原千畝氏がすばらしい行ないをしたのではない。当時の日本が大変にまちがった指示をしたのにもかかわらず、杉原千畝氏は自分の単独で機転をはたらかせて、少なからぬ無実のユダヤ人の命を救った。そうしたのがありそうだ。

 当時の日本は、国家の公として、まちがった正義をもっていた。そうしたまちがったあり方に従うことなく、杉原千畝氏は単独で個人の正義をとった。これは勇気がなければできないことであると言えそうだ。苦渋による英断である。当時の日本が指示したことは不正義だったのであり、いっぽうで杉原千畝氏のとった行動は正義だった。こうした区別をすることができそうだ。当時の日本は不仁(そのもの)だったが、杉原千畝氏はあくまでも自分の意思によって仁の愛をいかんなく発揮したわけである。

 杉原千畝氏の偉大さは、日本という国の同一性(アイデンティティ)ではなく、むしろそこへの反発としての個人性(パーソナリティ)によっている。なので、日本という国、または日本人としての同一性に還元してしまうのはどうなのだろう。そうして還元してしまうと、肯定の弁証法になってしまう。しかしそうではなくて、否定の弁証法でとらえるのが適していそうだ。当時の日本というまちがった命題(テーゼ)があり、それに抗うことによる正しい反命題(アンチ・テーゼ)があった。この二つは合として合わさることがないものとして見なすことができる。矛盾したものである。