文書の管理の価値と負価値(価値の反転)

 文書の管理の徹底を。国税局の長官は、そのように語っている。言っていること自体はまちがってはいない。しかし、長官は、まえに財務省の理財局長だったさいに、いま言っていることとはちがった行動をとっていた。政府の疑惑がとり沙汰されて、それを追求するためにいる文章や資料を、廃棄してしまったと言っていたのだ。そのためもあり、いまでも疑惑はきちんとは晴れてはいない。

 国税庁の長官は、前に自分がやったことと、いま自分が言っていることとのあいだに、矛盾がおきてしまっている。これはなぜなのか。一つには、権威に迎合してしまったせいなのがありそうだ。もし権威に迎合していなかったのであれば、政府の疑惑に関わることでの、文書の管理の徹底ができたはずだし、廃棄をしたとは言わなかったはずである。

 文書の管理の徹底は、一つの原理であるとできる。その原理を、政府の疑惑がとり沙汰されているときに、なぜもてなかったのだろう。なぜ捨てたと言ってしまったのだろうか。別の原理がとられてしまったせいなのがある。それが権威への迎合であると言えそうだ。権威への迎合が優先されたために、文書の管理を徹底するという原理がいちじるしくないがしろにされた。

 時の権力がもし悪いことをまったくしないのであれば、文書の管理を徹底することはいりそうにない。しかし、少しでも悪いことをするおそれがあるのなら、管理を徹底することがいる。管理を徹底するということは、悪いことをするおそれがあるのをあらかじめ見こしているわけだから、そこに理があるということができる。その理を捨ててしまうとすれば、悪いことをしないだろうという見かたをとることになる。理というよりは、気をとることだと言ってもよい。

 文書の管理の徹底をするというよりも、文書の管理の不徹底をしないようにしなければならない。文書の管理の不徹底がなぜおきてしまったのかを見て行くことがいる。そのような不徹底がおきてしまったのは、問題であることはまちがいがない。その問題がなおざりにされてしまうのはまずいことである。徹底から、不徹底へ、という移行(乗りかえ)が、一時においてのことではあれ、とられてしまったとできる。それがある以上は、いくら徹底をと言ったところで、その言葉はうつろに響かざるをえない。

 徹底と不徹底とのあいだに、二重運動がおきる。不徹底の否定が徹底なわけだけど、その否定がとられないと徹底がないがしろになる。徹底である禁止が侵犯されることで、不徹底となってしまう。徹底するのを価値として、不徹底をいましめるのであれば、不徹底をしてしまったことに対して直面して、再発の防止の策がとられないとならない。そうしたことが行なわれないのであれば、信頼することがひどくむずかしいと言わざるをえない。