両論併記の是非の両論もあるかもしれない

 両論併記だと、割り合いが見えづらい。憲法学者の木村草太氏は、そのように言っているという。そう言われてみると、たしかに、両論を併記してしまうと、あたかも半々で分かれているかのように受けとれるようにできてしまうのがある。一〇〇のうちで、一方が九九で、他方が一であるとして、それを両論で併記することで、五〇と五〇みたいなとりあげ方ができる。極論で言えばの話ではあるが。

 両論を併記することは、必ずしも悪いことではなく、中立にするための手だての一つではあると言えそうだ。ただ、とりあげ方が、必ずしも現実の割り合いを反映していないのであれば、悪い方にはたらくこともおきかねない。そうかといって、現実の割り合いを正しく反映したとしても、それがそのまま正しさにつながるとも言えないのがある。

 ある話題があって、ある人たちはこう言っている。それに対して別の人たちはちがうことを言っている。このちがうことを言っている人たちを、それぞれにとり上げる。そうしてとり上げるのはよいわけだけど、それだけでこと足れりとしてしまうのであれば、ただ認知や承認しただけで終わってしまう。それぞれの論の質が問われていないことになる。相互の交流が欠けている。

 こういうものがあるとして、認知や承認をするのはよいわけだけど、それは現実にあるものをひろい上げただけにすぎない。そのようなことにも意義はあるわけだけど、そこから価値は出てはこないのがある。価値についてはまた別に見て行かないとならないのがある。

 場合分けができるとすれば、両論を併記することはよいというだけではなく、悪い面ももつ。両論を併記しないことは悪いというだけではなく、よい面ももつ。そのように分けて見ることができそうだ。単純によいともできづらいし、悪いともできづらい。

 両論が併記されれば、形式としては整う。しかし、実質として見ると、質のよし悪しが整っていないことがある。もしかりに、形式として整えるというのであるとしても、やったりやらなかったりといったことではあまりのぞましくない。これは重要なことがらだから、中立にするために両論を併記するべきだ、という意見があるとしても、それが重要かどうかは人によって異なる。すでにあるていど見かたが定まっているものであれば、それについて改めて両論を併記して形式を整えることの意味がまちがいなくあるとはちょっと言えそうにない。

 両論を併記したうえで、そこにどんな共通点があるのかや、どんな相違点があるのかを見られればよさそうだ。二元論におちいってしまわないようにするために、ほかにどんな中間の論があるのかも見られればよい。論どうしがぶつかり合っているようでいて、じっさいにはそうではないということもある。次元がずれているのである。両論を併記したうえで、それを疑うようにする。ほんとうに両論はあるのか(対立しているのか)、何ていう視点ももてるかもしれない。