大道すたれて、仁義もすたれて(散文的な現実)

 大道すたれて仁義あり。東洋ではこのようなことが言われている。これは老子の言葉だそうだ。大道廃(すた)れて仁義ありのあとには、こうつづく。慧智出でて大偽あり。原始のあり方である大道から外れることで、人間は原罪をもつ。性善説のあり方だと言えそうだ。大道がとられていたのは、黄金時代であるとされる。それから時代が下るにつれて、だんだんと悪くなって行く。それで現在にいたる。下降史観である。

 大道とは一である。その一から離れることで、二となる。二になることで、さまざまな悪いことがおきてくる。そのように見なすことができそうだ。たとえば、有権者である国民と、政治家(代議士)との関係がある。政治家は国民の代理であるが、国民にとって(後々の)益にならないようなことをすることも少なくない。ちなみに、建て前としてみれば、二はよいことだともできる。人が二人いることで仁という字ができるという。仁とはやさしさの徳である。

 二のあり方では、一方のものと他方のものが、並列の関係にあるのではなく、優劣の関係になってしまう。優劣の関係となることで、優とされるものと劣とされるものとが区別される。これは差別であると言ってよい。そういうふうにして秩序が形づくられる。この秩序は抑圧としてはたらく。抑圧の加害をしてしまっているとすると、その被害を受けるものが生じるわけだから、できるだけ改められることがいる。

 大道というのは理想や心情としてはあるかもしれないが、現実にはあるとは見なしづらい。一つの理想の価値としてはとることができそうだ。大道がすたれて、二になってしまうことで、優劣の関係となる。それを少しでも改めるようにするとして、一である大道のあり方をかりにとってみる。これは一でありながら同時に多でもある。一であるのにとどまらず、多でもある。一即多、多即一といったあんばいだ。