意が合っているのかといえば、そうとは言えそうにないから、形骸化してしまっているのがあるかもしれない

 日本とのあいだに結んだ合意を、あらためて見直す。韓国政府は、そのように決めたことを発表するという。これは、戦時中の従軍慰安婦について結ばれた日韓のあいだの合意についてである。それを見直して、日本から送られた一〇億円を、使わなかったことにして金融機関に預けて凍結するそうだ。

 日本との再交渉は行なうつもりはない。日本が自分から、従軍慰安婦(戦時中性暴力被害)を含めた歴史の事実をきちんと認識して明らかにするように努めるのをのぞむ。韓国政府は、このように述べている。日本の側へ球を投げ返したというか、渡したようなかたちになっている。日本がそれを受けとるとは限らないが(受けとることはあまりのぞめない)。

 なぜ韓国は、日本とのあいだの従軍慰安婦の合意を見直して、一〇億円を凍結するというのだろうか。それははっきりとはわからないのがあるけど、一つには、結婚になぞらえることができるかもしれない。

 結婚式では、結婚を決めた二人が、永遠の愛を誓い合う。その誓いは嘘ではない。しかし、時が経つとともに気持ちが変化してゆく。およそ三組に一組くらいは離婚をすることになる。はじめに誓ったこととはずれてしまうわけだけど、ずれてしまうのが自然だとも言える。これは、誓った時点に焦点を当てるか、それとも今の時点に焦点を当てるかで、見かたがちがってくる。その二つの時点のあいだで、焦点の当て方によってちがった意味づけが成り立つ。

 理想論としては、日本にも韓国にもともに益になるのがよい。または、損になるとしても、それを共に等しいくらいに分担する。そのようになっていないで、どちらか一方に多く益になったり損になったりしてしまうのであれば、理想論は成り立たない。現実を見なければならない。合意を守ることで、韓国にとっては損になる。逆に、合意が守られないことで、日本にとっては損になる。これは、そもそもお互いに主要な価値を共有できていないことをあらわす。お互いに信頼がもてていない。これでは、合意の以前の話と言えそうだ。

 仕立てあげられたものとして、合意がある。そのように見なすこともできそうだ。合意が完全な善であるとすると、それを実行することもまた完全な善となる。しかし、人間のやることで完全なものはありえそうにない。不完全さをもつものだと見なせる。その不完全なところについて、あらためて見なおしてみることができる。実行することだけが善であるわけではない。

 日本としては、合意を守るべきだというのは当然の主張なわけだけど、それをすることでかえって、お笑いで言われるフリがきいてしまうといったのもあるかもしれない。合意を一ミリメートルも動かすなよ、絶対にするなよ、という圧をかけることで、それが逆のメッセージに転じてしまう。逆にはたらいてしまい、オチになってしまう。オチになるのはけしからんというのもあるわけだけど、これは一つには、フリをきかせてしまっているせいだとも見なせないでもない。

 もし柔軟性をもてるのだとすれば、合意を守ることをかたくなによしとするのを避けることができそうだ。そこにかたくなになってしまうと、固着することになる。はたして固着することが合理といえるのかといえば、それがかえって不合理に転じることもなくはない。不合理に転じてしまうと、お互いにぶつかり合いになってしまう。これでは問題の解決にはなりそうにない。

 もし合意を守ることにかたくなにこだわるのだとしても、それは長期の視点に立つものでないと、合理によるとは言いがたい。長期の視点に立たないと、どちらもともに益にはなりづらい。逆に、短期(瞬間)の視点に立つと、合意を破ることにも合理性が生じるのがある。はたして日本が長期の視点に立っているのかといえば、そうとは言えそうにない。ということは、お互いさまなところがある。相手のことばかりを責められそうにない。

 日本が譲歩をすることになってしまうのがあるかもしれない。そのうえで、一度は合意ができたのがある。これは結婚で言うと、一度は愛を誓い合った仲である。そこに一すじの光があると見なせるのではないかという気がする。どうせ、合意を結んでもそれがきちんと実行されないだろう、というのもできる。そのような見なし方をもつのとは別に、一すじの光の可能性をもつのがよいのではないか。そうした可能性をもつのは、まったく不合理なことではない。隣国どうしであり、長いつき合いが想定できる。そのためにも、(この件については)日本はまったく悪くないとして自己欺まんにおちいるのではなく、少しは自己非難をするのがあったらよさそうだ。