あるべきものと、すでにあるもの(あるべきものとしてのすでにあるもの)

 今年こそ、憲法のあるべき姿を国民に提示する。自由民主党安倍晋三首相はこのように語ったそうだ。この発言において、今年こそということだけど、なぜ今年こそなのだろうというのが一つにはある。何か今年にやらなければならないような必然性があるのだろうかというのが個人としてはいぶかしい。必要性をねつ造している気がしてならない。

 憲法のあるべき姿を示すということだけど、そもそも、すでに憲法があることを忘れてはいけない。そのような気がする。まさか忘れているわけではないとは思うけど、軽んじようという意識がはたらいているとしたらそれが心配だ。

 憲法のあるべき姿というのは価値についてのものであり、人それぞれであるものだ。それとはべつに、いまある憲法を重んじることができる。よい憲法か、それとも悪い憲法か、というのは、価値についてのことだから、人それぞれで見かたが異なる。それとは別に、実証として、いまある憲法は有効性をもつものなのだから、これを最大限に尊重することができる。あるべき当為(ゾルレン)ではなく、実在(ザイン)としてのものである。それを最大限に尊重するとはいっても、現実とのかね合いや今までの流れがあるから、そこの融通はとれるものだろう。

 よいか悪いかは人それぞれであり、それとは別に、実在するのがある。その実在するものが、すごく悪いとかまちがっているという人もいれば、すごくよいとか正しいとする人もいる。これが実在におけるさまざまなありようである。そうしたさまざまな実在のあり方ではなく、たとえばすごく悪いとかまちがっているというのだけをよしとするのであれば、あるべきである当為のあり方であると言えるだろう。そうした当為のあり方をとるとしても、そもそも正しさやまちがいは、何を目的とするかによってちがってくるのを無視できない。人間がよしとする正しさは、神さまのような完全なものではなく、不完全なしろものである。神さまのように完全だとすると、独断におちいってしまう。

 (少なくとも部分的には)まちがっているものはまちがっているではないか、との意見もあるかもしれない。たしかにそれも言えるかもしれないが、一方で、まちがっているものはその存在を否定してしまってもよいものだろうか。それは(極端にいえば)粛清やせん滅のあり方につながりかねないのがある。まちがっているからそれを否定してもよい、となる。完全に正しい論法ではないけど、そのような見かたがとれる。この見かたは、一義ではないという視点に立つことによるものである。多義による。そのようにして、早まって否定するのに待ったをかけるとはいっても、批判をするのまで止めるわけではない(批判するのはありである)。その批判は、できれば自他への批判であるのがのぞましいものだ。

 改憲をするという意気ごみを持つ前に、やらなければいけないことがある。それは、あるべき姿を示すとはいっても、それが原理なきものではあってはならないというのを再確認することである。原理についてを再確認することなしに、あるべき姿を示してしまうのであれば、あれからこれへの時勢や時局に流されてしまうようなあり方となりやすい。そうして流されてしまうのを防ぐには、何を出発点として置くのかを十分にふまえてみることがいる。

 ロマン主義のようにして、新しくあるべき姿を示す。そういったふうであれば、その姿勢には個人としては賛同ができそうにない。新しさなどないのだというふうに見なしたいのがある。新しさなどないというのは、一つには、反動のようにして戦前に回帰してしまってはまずいのがあるからである。いまの憲法と明治の憲法とは、対照をなすものとしてとらえられるわけだから、その二つの対比によって見ることができる。これを、明治の憲法に少しでも近づけて行こうとするものなのであれば、何ら新しいものであるとは言えそうにない。むしろ(悪い意味で)古い。古いから悪いとは言い切れないわけだけど、そのいっぽうで、新しいものでも何でもないというのもたしかだ。

 文化によるソフト・パワーと、物理によるハード・パワーがあるとして、どうしても物理によるほうが頼もしく見えるのはいなめない。それはあるとして、そうした目立ちやすいものばかりではなく、目立ちづらいものに目を向けて行くのが大事になってくる。目立ちづらいものに目を向けて行くためには、一つには、物理の現象の背後にある理念や理論に目を向けて行くのがよさそうだ。

 隠れている理論があり、それが根拠になって、現実を意味づけている。そうしたのがあるとすると、もとにある隠れている理論を表に出すことができる。隠れている仮定を明るみに出す。隠れているままであれば、隠ぺいされていて、抹消されている。抹消されていることも抹消されていて、二重に抹消されているわけだ。そうした忘却を改めることで、想起することができる。この想起は、素朴な現実主義(naive realism)への批判である。

 現実そのものをとらえるのはできづらい。これが現実であるというのだとしても、それは物質である言葉によって媒介されている。言葉は観念であり、それは思いこみによって成り立つ。観念によって照らし出された部分があるとして、それ以外の暗闇である残余の部分がある。とらえきれていないところである。くみつくせないところがある。ずれや揺らぎというのもある。

 ある理論によれば真であるのが、別な理論によれば偽になることがある。そうであるとしても、真っ向からぶつかり合ってしまうとはかぎらない。一つの文脈だけが正しいとするのでないのであれば、寛容性をもつことができる。それぞれの根拠(argument)による議論(argumentation)が成り立つ。白か黒かではなく、がい然性によるとすれば、灰色とすることができる。

 なぜ明治の憲法ができたのだとか、なぜ今の憲法がかくある内容になったのかだとかを、上へと目を向けてゆく。実質の水準に下げてしまうのではなく、メタである上に上がるようにして、形式みたいなものにも目が向かうようであればよい。他国の陰謀だなどとするのは実質の話だ。実質である下位だけではなく、上位の視点も合わせ持つことができればつり合いをとりやすい。偉そうなことをさも知ったようにして言ってしまったが、あるべき姿を示す前に、もっとやるべきことが色々とあるような気がするのである。その前にある段どりをすっ飛ばしてしまうようなら残念だ。