一斑を見て全豹を卜(ぼく)すということでは、全豹をとらえているわけではない

 いつも怖い顔で報道されている。それが、じっさいに会ってみたら、かっこよくて、人相がよい。報道では、悪い印象操作をされているのにほかならない。沖縄で活動をしているという我那覇真子(がなはまさこ)氏は、首相公邸にまねかれたさいに、首相にたいしてそのように発言をしたという。新年において、首相を囲んで四人の女性論客が対談したさいのことである。産経新聞の記事に載っていた。

 じっさいに首相に会うことで、間近に目にしたり耳にしたりすることができる。我那覇氏が感じ入ったとうかがわれるのは、首相の外形のかっこよさであり、人相のよさである。しかしこれは、あくまでもそれを見た人の主観の印象にすぎない。それに加えて、二四時間三六五日にわたり首相のことを生で接して見たり聞いたりするわけではないから、断片であることはたしかだ。

 生でじかに会ってみて、かっこよいし人相がよいから、その人はよいことをするのだろうか。この推論は正しいものだとは必ずしも言えそうにはない。人をだます詐欺師なんかは、生でじかに会う人にたいして、人あたりがよいことが少なくない。人あたりが悪い詐欺師は少ないだろう。目的を達しづらい。そこからすると、生でじかにあったさいに愛想がよいからといって、そこからその人がよいことをするだろうと推しはかるのはちょっと危ない。

 報道では印象操作されてしまうこともあるだろう。しかしそうだからといって、生でじかに会ったさいに印象操作がないとは言い切れそうにない。むしろ、印象操作とは、本人が生でじかにやることだとも言える。自分の印象を操作することは、自分しだいでいかようにもできることである。言語もしくは非言語のあらゆる手段を用いて行なう。なので、生でじかに接したさいにこそ、印象操作を本人がしているとして、そこを差し引かないとならないのではないか。本人が自分に不利なことをあえてさらけ出すことは、何らかの理由がないとありえづらい。反動形成や、駆け引きによる譲歩や、気を許しているとか、(仲間内だけではない相手との)誠実な議論のやりとりにおいては考えられそうだが。

 物理による客体としての首相がいるとして、それをどのように受けとるかがあり、それから意味づけがされる。そうして自分が意味づけしたものが正しいものだとは限らない。というのも、受けとり方がまちがっているおそれがあるからだ。ここについては、認知の歪みなんかが知らずうちにはたらいてしまっているおそれがある。なので、意味づけしたものは絶対ではなく、相対化するほうが無難である。客体への解釈として、先見が入りこんでしまうのも避けがたい。

 沖縄では、首相が厳しい顔で報じられるのがあるそうだ。それは、首相という個人にたいするものというのとは別に、(分けかたが雑かもしれないが)本土と沖縄とで、負っている負担の格差が生じてしまっていることによるのが要因としてあげられる。そうしたことが反映されていると見ることができそうだ。その点について、双方向で話し合いのやりとりがきちんとなされているとは言いがたく、公正さにたいする配慮が少なからず欠けてしまっていると言わざるをえないのではないか。もしそれが欠けていないのであれば、(一部からではあるかもしれないが)不満の声が強くはおきないはずである。