国民を愚民視するような愚民観をもつのは適したものとは言えそうにないのはある(世界全体にまで広げられないものだろうか)

 国民を愚民視している。そうした愚民観は許しがたい。そういったことが言われているのを目にした。これは、国民を愚民視するような愚民観をもつのはのぞましくないという、あるべき当為(ゾルレン)を言っているのだろうか。もしそうだとすると、その当為とは別に、実在(ザイン)としての国民が愚民であることを完全に否定することはできそうにない。

 国民を愚民視するような愚民観をもつことに問題があるというよりは、国民を愚民だと見なすのは、国民を十ぱ一からげにしてしまっているからいけないというのがある。ひとくくりに一般化してしまっているわけである。国民の中には、賢い人もいるし、賢くはない人もいる。賢い人のよさもあるだろうし、賢くはないがゆえのよさもあるかもしれない。賢くはないがために気づけることもないではない。賢いがために見落としてしまうようなこともありそうだ。

 国民をひとくくりに愚民だとは見なせないにしても、だからといって国民は完全にあやまたないものだろうか。人間はあやまり多きものなのではないか、ということができる。これは、人間が合理性に限界をもっているからだろう。あとでふり返ってみれば不合理だったといったようなこともしてしまう。そうしたことへのおそれをもつことは、まったくの不合理な見かただとはいえそうにない。

 国民を愚民視するのを避けるのだとしても、それは日本人に限ってのことでよいのだろうか。日本人を愚民視するのを避けるとして、それ以外の国の人はどうなのかということである。もしそこで区別をしてしまうのだとすると、それは差別には当たらないだろうかというのがある。日本以外の国の人は愚民視してしまってもよいとするのではなく、そこについても愚民観を捨てるようにすることも意識できる。愚民ではないのだとすれば、合理による話し合いが(少しくらいは)できるのがあるだろうし、見さかいなく日本をおとしいれたり攻め入ってきたりするようなものと見なすのに待ったをかけられる。

 日本の国民を愚民視するのような愚民観は許しがたい。そうして愚民視しないのだとしても、では現実の政治や社会はどうなのかを見ることができる。すごくうがった見かたをしてしまえば、愚民ではないのだとすれば、もっと現実がよくなっていないとおかしい(さまざまな文脈において)。政治や社会のじっさいのありように、愚民ではないということが反映されているのであれば、つじつまが合う。はたしてつじつまが合っているかどうかは、みんなが納得するとはちょっと言いがたい。満足している人もいるだろうけど、不満をもっている人もいる。

 政治についてにかぎって言うとしても、愚民でないためには、その分野にたいする知識や情報をきちんともっていないとならない。そのような条件を満たす人ははたして多いのだろうかというと、少ないのではないかという気がする。きちんとした知識や情報をもち、感情に流されず、つり合いのとれた見かたができてはじめて、均衡しているということができる。しかしじっさいには不均衡または無関心である人が多いのではないか。これは自分を含めての話である(自分もけっして例外ではない)。であれば、そこを改めるような工夫があってもよさそうだ。この工夫は、個人によるのとは別に、制度などの環境を改められればよいというのがある。

 (国民投票なんかの形で)いきなりこれについて考えよと上から言われて、それではいそうですかとして、それについての均衡のとれた見かたができるのかといえば、きわめて難しいのではないかという気がする。もしそれができるのだというのなら、国民を信頼しすぎなのではないかといえそうだし、過信してしまっているところがある。そこについては、疑いをもたざるをえないのが個人としてはある。