敗戦や侵略についての否定が価値をもつ

 第二次世界大戦で、日本は敗戦をした。そのことを話の中で持ち出し、敗戦の語を口にする。聞いていた側は、いや、あれは敗戦ではなく終戦だ、と反論する。敗戦の語を口にしたのは政治家の田中真紀子氏で、それを(敗戦ではなく)終戦だと反論したのは自由民主党安倍晋三首相だという。

 田中真紀子氏は、戦時中の日本は中国や東南アジアへ侵略したとしている。侵略戦争だった。しかし安倍首相はこれを認めず、ちがった見解を示す。侵略だったのではなく、アジアを解放するために行なったことであるとしている。

 二人のあいだで話がかみ合っていない。ともにちがった見解をもっているからだろう。そのうえで、一つには、敗戦を終戦と言い換えるのはいかがなものかというふうにできる。言い換えてしまうと、ごまかしになってしまうものと見なせる。敗戦は敗戦であるときちんと認めたほうがよいのではないか。

 敗戦を敗戦としてきちんと認めることにより、中国や東南アジアにたいする侵略戦争だったとの見かたにもつながってくる。なぜその見かたにつながるのかといえば、日本が敗戦をしたから、侵略戦争だとなったというのがあるからである。日本が戦争に負けたから、あの戦争は侵略だったということになった。そのようなつながりによる見かたが成り立つ。

 敗戦を敗戦として認めず、終戦と言い換える。そうすると、戦争に負けたというのがぼかされてしまう。そうしてぼかされることで、侵略戦争ではなかったという見かたにつながる。そのようなことが言えそうだ。この見かたはちょっと苦しいところがある。というのも、敗戦したのは一つの事実だと見なせるからだ。敗戦していないとは見なせない。そこでむりやり、アジアを解放するために行なったという建て前を押し通すのには無理がある。この建て前は、動機といってもよく、それとは別に、結果があると言えそうだ。動機だけではなく、結果もまた見ないとならない。

 建て前や動機だけを見てよしとするのだと、自己欺まんの自尊心におちいってしまいかねないのがある。よいことをしたとか、しようとしたということで、それを自国である日本の手がらにしてしまう。栄光化するわけだ。そうしたあり方からすると、罪責をもつことはいらないとなる。しかし、罪責というのではないとしても、自己非難はするべきである。それがないと、自己欺まんの自尊心の肥大化から抜け出すことはできそうにない。自尊心が肥大化すると、ものを見る目がいちじるしくくもる。

 罪責をいだき、自己非難をする。それを自国である日本をおとしめることであるとするのは、動機による忖度である。そうではなく、(動機は別として)それが結果として少しでもよいほうに進んでゆけばよいのであり、そうしたほうへ進んでゆける可能性はゼロではないのがある。このほうが、自己欺まんの自尊心におちいるのを少しは避けられるので、それがよい点だろう。罪責である、過去のよくなかったことに意識して気づけるのもよい点だ。意識して気づくことで、それを相対化することができるのが見こめる。

 原因がわかれば感情は消える、とするあり方もあるという。これは、哲学者のスピノザ精神分析学のフロイトが言っていることだそうだ。そのさいの原因(cause)として、自国である日本が過去にしでかした歴史上の大失敗の行ないなどが当てられる。(かつての)自国に原因を特定できるわけだ。少なくとも一つの仮説としてはそれがもてる。その原因から目をそむけつづけ、耳をふさぎつづけるのなら、怨恨や憎悪などの負の感情はいつまでも消えそうにない。

 負の感情はいつまでも消えそうにないなどと、わかったようなことを言ってしまったが、自己欺まんによる自尊心が肥大化しかねない危うさがあるということは言えそうだ。そうなると破滅につき進むおそれがある。破滅というとおどしのようになってしまうが、自己欺まんによる自尊心は自己保存をとるものであり、これは他者の死滅を求めることにつながる。そこで死を賭けたぶつかり合いとなる。