株価は量であり、その質がどうなのかがありそうだ

 平均株価が一万円から二万三〇〇〇円になった。それがあるので、自由民主党安倍晋三首相による政権について、ほぼ一〇〇点満点を与えられる。評論家の勝間和代氏は、投資家の立場をこめつつそのように語ったという。一万円を七〇〇〇円にした政権と、それを二三〇〇〇円にした政権との、どちらを評価できるのか、と問いかけている。答えは明らかだということだ。

 株価は上がったものの、労働者の賃金は上がっていない。それがあれば一二〇点をあげられる。勝間氏はそのように言っている。労働者の賃金は思うように上がっていないので、ほぼ一〇〇点満点にとどまっているというわけだ。

 安倍首相による政権が株価を上げたということだけど、これは株価の額であるから、量ではあるが、それとは別に質についてがある。質というのは、きちんと中央銀行の独立性を保ったうえで株価が上がったのならよいけど、そうではなくて中央銀行の独立性を損ねるようにしているのが心配だ。これは代理人費用(エージェンシー・コスト)をきちんと払っていないことをあらわす。代理人費用を払うとは、権力の分立をとることであり、抑制と均衡により意思決定の適正さを保つことである。その費用を払っていないことのツケがあとで出てくるおそれがある。

 株価が上がったことの恩恵は、一般の人にはそこまであるのだろうか。株の投資をしているのであれば、目に見えて儲かった人もいるかもしれない。しかし一般の人で株の投資をしている人はそれほど多くはないようだ。近い将来に必ず株が上がるとわかっていれば、みんながそれを買うだろうが、(何ごともそうではあるが)確実という保証はない。あとでふり返ってみて意味づけをすることはできるわけだけど、それはあくまでも後知恵である。

 株価というのは、上がったら下がるし、下がったら上がるものである。そうした波動による。上がったとして、それをそのときの政権の手がらとしてしまってよいものだろうか。株価もよいことだし、何となくうまく行っているだとか、何となくうまく回っているだとかという受けとり方であれば、社会の中の負の面に目を向けるのをし損ねてしまいかねない。この負の面は、社会の中の呪われた部分である。解決されていない社会の深刻な問題の数々だ。

 ここに問題がある、あそこにも問題がある、というふうに、猟犬のようにそれを嗅ぎつけて指し示す人を、うとんじてしまうようだとまずい。うとんじて遠ざけるのもまったくわからないわけではないが、都合の悪いことを回避してしまえば、問題の解決にはなりそうにない(先送りにはなるかもしれないが)。

 めんどうではあるかもしれないが、社会の問題について、正(テーゼ)と反(アンチ・テーゼ)による対立点をつくる作業ができればよさそうだ。こうした作業はめんどうであり、すぐには役に立たないし、時間や労力がかかるが、豊かさにつながることがのぞめる。そうした作業をやらないで、たんに正(テーゼ)だけをもってしてよしとするのだと、対立点をつくることはのぞめない。都合の悪いものである反(アンチ・テーゼ)を隠ぺいしたり排除したりすることで、蓄積再生産をとることになる。いわば、ためこみだ。正のものだけではなく、負のことがらのためこみでもある。