日本という形式だけでは好きにはなれないのがある(純粋に好きというのではないし、実質がどうなのかがある)

 なぜ日本が嫌いなのに、日本に住んでいるのか。日本が嫌いであるのなら、日本に住まなければよい。日本から出てゆけばよい。そうした意見がある。これは、疑問の形をとっていることがあるけど、じっさいには修辞疑問(文)であるといえる。日本が嫌いなのにもかからわず日本に住んでいるのはけしからん、みたいなことである。

 日本が好きだから人は日本に住んでいるのだろうか。必ずしもそうだとは言えそうにない。日本が好きではあるが、日本から離れる人もいる。この場合は、日本が好きだけど日本に住まずに日本から離れるわけである。日本が嫌いだから日本から離れるわけではない。そうしたこともある。

 日本が好きか嫌いかは、評価といえそうだ。その評価とは別に、それについての理由とか解釈がある。なので、理由や解釈を見てゆけばよさそうだ。そのほかに、どういった現実の状況にその人が置かれているのかもある。そうしたのから見て合理の意見であるのであれば、あるていどの説得性をもつと見なすことができる。

 日本が好きだという評価をしているのだとしても、そのさいの評価の尺度がおかしいことがあるとできる。逆に、日本が嫌いだという評価をしているのだとしても、そのさいの評価の尺度がきちんとしていることがある。そのようにしてみると、日本が好きなのかそれとも嫌いなのかという評価だけをもってして、のぞましいかのぞましくないかを決めることはできそうにない。尺度となっている価値観が偏っているのであれば、客観とは言いがたい。

 日本が好きなのかそれとも嫌いなのかのちがいがある。そのさい、なぜそうした評価となるのかについてを見ることができる。それがいまの日本の環境や状況によっているのだとしたら、ある人の外に原因があることになる。外というのは、その人をとりまいている環境や状況をさす。その人の内に原因があるというよりは、外である環境や状況によっているわけだ。その人をとりまいている環境や状況のあり方が変われば、評価もまた変わってくる。

 日本が好きあるいは嫌いなのは一つの結果である。その原因が何によるのかは、そう感じた人によるのだけではない。人によるとしてしまうと、まちがった原因の当てはめになってしまいかねないのがある。いまの日本の現状の中で、その人が置かれている状況があり、そこに原因があるというふうに見られる。そうして見たほうが適していることは少なくない。

 日本という本質があり、そのあとに人がある。そうしたのだと本質主義となってしまう。しかしそうではなく、実存は本質に先立つというふうに見ることができる。日本を選んで日本に生まれたり日本人になったりするわけでは必ずしもない。とすると、実存による見かたをとることができる。好きにならなければいけないというのだと、自分の外にある事情から動かされることになる。父権主義だといえそうだ。そうではなく、その人の自発(内発)の自然な意向を尊重することができればよさそうだ。

 内と外というのでは、内か外かどちらかとしてしまうと、二元論になってしまう。そうではなくて、内と外の境い目を見ることが一つにはできる。その境い目にあるのが辺境であり、そこにいるのが辺境人だ。こうした場所や人に着目することができる。はからずも辺境に追いやられてしまったり、そこにいざるをえなかったり、自分から進んでそうしたところへおもむいたりする。そこには抑圧や疎外があるというふうにできる。圧がかかっているので、意味のある表出(出力)ができる。内の中の中心に近いところにいるのだと見えなかったり聞こえなかったりすることが、離れたところからはよくわかるといったこともありそうだ。正統ではなく、異端によるものである。

 好きか嫌いかとすると、二元論になってしまう。人間の感情は単純ではないから、複雑なものとして見ることができる。これを単純なものとしてしまうと、過度の単純化になってしまいかねない。好きなら好き、嫌いなら嫌いだとして、仕立てあげてしまうことになる。日本が好きだという動機で動いたとして、結果として日本を駄目にしてしまうことがある。逆に、(今の)日本が嫌いだという動機で動いたとして、結果として日本をよくすることもある。そうして動機と結果を分けて見ることもできそうだ。