寂しいとかかまってほしいために批判をしているわけではないのがありそうだ(表現活動としてのものだろう)

 時の首相と食事を共にする。そうして喜んでいるお笑いの芸人やコメンテーターはいてもよいが、文化にはあまり貢献はしない。忖度の天使にすぎない。公共の電波でやるコメディーではない。このようなことを、脳科学者の茂木健一郎氏は言ったそうだ。

 この茂木氏の発言にたいして、その発言の対象とされるお笑い芸人のダウンタウン松本人志氏はやり返した。寂しいからそういうことを言うのだろうとしている。過去に税金の滞納の問題があったことにも触れて、茂木氏と会食をするときには節税についてを聞きたいとした。

 時の首相と食事を共にするお笑いの芸人やコメンテーターを茂木氏は批判したわけだけど、それだけで終わらず、ちゃんとそのあとにフォローもしている。そこに茂木氏の気づかいが見てとれる。下げはしても、そのあとで上げもしている。抑揚をとっているわけだ。形式としてはつり合いがとれているけど、実質としては下げの印象が強いと受けとられるかもしれない。上げの効果が薄かったおそれがある(とってつけた感が多少あるかもしれない)。

 茂木氏による批判は、的を得ているところがある。えらそうな言い方ではあるかもしれないが、そのように感じる。忖度の天使というのも言えているところがある。というのも、面と向かって厳しく切りこむのであれば、悪魔になると言えるからだ。これはあくまでも役がらとして悪魔になるということだ。現状に順応して従うのが天使であり、それに(全面ではないにせよ)ノーと言うのが悪魔となる。

 時の首相と食事を共にすることに問題があるとすると、一つには、和の拘束がはたらいてしまうのがある。和をもって貴しとなすというが、それがかえってあだになってしまうのである。食事を共にするということは、理と気でいうと、気による交わりであるのをあらわす。そのため、理がないがしろにならざるをえない。そこで理をもち出せば、空気が読めず、和を乱す。

 タレントのビートたけし氏がこのようなことを言っていたのを思い出す。たけし氏が司会をしている番組へゲストがやってくる。そうしてやってくるゲストは、たけし氏のことを嫌いなはずはない。もし嫌いなのであれば、たけし氏が司会をする番組にくるはずがないからである。絶対にないとは言い切れないが、常識からいうとまずやってこない。

 好きか嫌いかという二元論でものをとらえてしまってはまずいことがある。多少なりとも好きだから食事を共にする。それはけっこうなことである。それとは別に、嫌いであるからというのではなしに、厳しいことを切りこんでゆくのがあるとのぞましい。それをよしとして受けて出る度量がほしい。こうしたのは、好きか嫌いかや友か敵かの二元による友敵論ではない。友と交わり合い、敵を遠ざけて退けるのもよいが、それだと深く掘り下げたやりとりができづらい。ぶつかり合いがないので、独話のようになってしまうところがある。

 時の首相と食事を共にするということは、権力からの呼びかけに応じるというのをあらわす。そのように見てさしつかえがないものだろう。権力とは支配の力であり、それはイデオロギーでもある。そこからの呼びかけに応じるのは、それに都合のよい主体となりかねない。主体とは出発点ではなく、イデオロギーからの呼びかけに(知らずうちに)応じたその結果である。

 主体(サブジェクト)は隷属(サブジェクション)と同一である。思想家のミシェル・フーコーはそのように言っているという。権力との共犯関係になるのが近代における主体の主観だという。隷属してしまうのは、性善説で権力を見てたやすく信頼してしまうことによる。そうではなくて、少しでも抗おうと努める。そうしたことができればさいわいだ。性善説で見るのであれば、そもそも政治権力は不要である。法律もいらない。極論ではあるが、そうしたことが言えるだろう。