人間の生命力の強さをもっと低く見積もるべきである

 会社というものを信用できない。そうした現状があると言わざるをえない。二〇歳の若い男性が、勤めていた菓子製造会社からひどいあつかいを受けていたとされ、それによって自分で命を絶ってしまった。毎日新聞にそうした記事があったのを見かけた。

 二〇歳の男性は、勤めていた会社で、長時間労働をさせられていた。それにくわえて、上司にあいさつをしても無視されたり、毎日のように大声で怒鳴られたりといったいじめも受けていたという。会社を辞めようとしたら、(もし辞めたら)男性の出身校から採用を止めるぞとのおどしを受けていたそうだ。

 会社の側は、男性が長時間労働をしていた事実はないとしている。力関係でのいじめもなかったと言っている。そうしたことは認識していないとのことだ。これは不誠実な態度だと言わざるをえない。勤めていた男性が命を絶ってしまったという結果を最大限に重く見るのがいる。その結果が不幸にもおきたのがあり、原因は会社にあるとすることは十分に推しはかれることである。結果を引きおこした原因が会社にあったとの仮定に立ち、きちんと力を入れて検証するのが欠かせない。

 労働というものが文化価値になってしまっている。しかしじっさいには、労働は隷属である。この隷属である労働が(否定ではなく)肯定の価値をもつのは、近代の時代に入ってからのことであるという。美徳となってしまっているのだ。ほんとうにじっさいに美徳なのかといえば、そうではなくて逆に悪徳であることも少なくない。ブラック企業はその例である。

 自分が勤めている会社ではたらくことが、そんなによいことなのか。必ずしもそうであるとは言えそうにない。会社の中で不当なあつかいを受けているのだとしたら、もってのほかである。それで会社が労働者におどしをするなんていうことは、本来はあってはならない。労働者は一人の個人として、自分の幸福を追求するのを最優先にできる。それが絶対の原理とは言えないが、(いくつかある中の)一つの原理として確固たるものである。自分の幸福を犠牲にするのではなく、それを追求するほうが善になることがある。

 会社というのは、それほど長い年数にわたって存続するものとは言いがたい。一説によると、日本の会社は三〇年くらいが平均の寿命であるという。ばらつきがあるとすると平均の数字にはあまり意味がないかもしれないが、かりにこの三〇年というのを正しいとすると、(個人差はあるが)人間の一生よりもずっと短い。その程度のものだということができる。

 与党の政治家の人なんかが、こんなことを言うのを見かける。いまの憲法では、国民に権利ばかりを与えていて、義務が少ない。もっと(権利につり合うように)義務を多く課さないとならない。こうした意見があるわけだけど、じっさいにはその逆が言えるのではないか。労働や納税の義務ばかりが重く課されていて、権利が知らされなさすぎている。

 なぜ権利が知らされないでいるのかといえば、そのほうが為政者にとって都合がよいからではないか。国民の一人ひとりが権利をきちんと知らないでいれば、それに越したことはない。そんなふうな判断をしてしまっていそうだ。もしそうだとすれば、それはのぞましいこととは言えそうにない。もっと全面に活用されてもよいはずだ。あくまでも主観の推測にすぎないことではあるわけだけど。