二〇二〇年を機にという偶然性(関連性の薄さ)

 憲法の改正に向かう。そのために、それぞれの政党が具体案を持ち寄るようにしてほしい。憲法審査会でそれを議論する。自由民主党安倍晋三首相は、二〇二〇年に開かれる東京五輪の時期に合わせて、新しい日本に生まれ変わらせるのだとする。

 二〇二〇年というと、もうあと二年くらいであるから、そんなに時間はない。国の形を変えるようなことがらをあつかうのであれば、もっとじっくりと時間をかけてやるのがよいのではないか。そうでないと理解が追いついて行かない。功をあせってしまうようでは失敗しかねないのがある。

 憲法を改正して、日本を新しく生まれ変わらせるべきなのか。必ずしもそうするべきだとは言えないだろう。というのも、そうするべきだとは憲法には書かれてはいないからである。憲法を改正しないで、日本を新しく生まれ変わらせないでもよい。そうした自由を憲法では保障している。なので、憲法を改正して、日本を新しく生まれ変わらせるのは、あくまでも任意であり、必須ではない。

 任意ではなく必須だとしてしまうのだと、他人に動かされることになってしまいかねない。そうして他人に動かされてしまうようだと、のぞましいあり方だとは言えそうにない。あくまでも、自分で自分を動かして行くのがよいのがある。自己決定である。国の形については、それを改めるのがよいというのがあってもよいし、改めないほうがよいというのがあってもよい。どちらか一方が他方を排除するべきではないのがありそうだ。

 二〇二〇年に開かれる東京五輪をきっかけとして、議論がさかんになればよい。そうして議論をうながすのはよいわけだけど、これには危険性があることもたしかである。危険性というのは、国の形がまちがったほうに向かって決められてしまうおそれがある。それを少しでも防ぐためには、憲法の改正に向けて効率を重んじるのではなく、できるだけたくさん時間をかけて適正な過程をふむべきである。戦前や戦時中には、促成栽培のようにして性急にことをおこして大失敗したのがあるわけだから、それをもう一度やらないためにも、低温で時間をかけて少しずつ熟成させてゆくのがよさそうだ。

 憲法を改正するのがありきの議論をうながすようでは残念だ。そうではなくて、憲法を改正するのもよくて、逆にしないのもよい、とするあいだでの議論をすることができる。憲法を改正するのをよしとするのがまちがってはいないのと同じように、憲法を改正しないのをよしとするのもまたまちがってはいない。どちらとも、まったくの非合理というわけではないのがある。なので、議論ができるくらいの合理性をもつことができる。

 憲法を改正するのを自分たちがよしとするのはかまわないわけだけど、憲法を改正しないのをよしとするのにたいして寛容さをもてればよいのではないか。そこに非寛容になってしまうのだとまずい。まずいというのは、憲法を改正するのをよしとするのが正しいとして固定化されてしまうからだ。憲法を改正しないのをよしとするのが誤りだとして固定化されてしまう。この固定化は、中立や客観によっているとは言いがたいものである。

 憲法を改正するのをよしとするのを、一つの集団(党派)であるとできる。そこからすると、憲法を改正しないのをよしとするのは外集団となる。この内集団と外集団のちがいは、反転させられるものだ。この集団のちがいは反転させられるものなので、反転可能性の試しをするのがよい。そうしたことをしないのであれば、内集団ひいきとなってしまうおそれがある。これを避けるのがよさそうだ。内集団ひいきとなるのだと、非対称になってしまう。そうではなくて、なるべく対称にできればよい。対称にしたうえで議論をする。対立点を明らかにして、それを浮きあがらせる作業を時間をかけて少しずつとって行く。