国家の暴力と、テロの暴力

 テロリストがテロをおこす。するとそのテロリストは警察や軍人によってその場で射殺される。外国ではこのような対応をとっているところがある。こうした対応と、死刑廃止のうったえとはつじつまが合っていない。そうした意見があった。

 テロリストがテロをおこしたらその場で射殺するのは、死刑のようなものだという見かたができそうだ。なので、死刑廃止のうったえとつき合わせてみると、こうした対応もまた廃止するのがふさわしい。もし廃止しないのであれば、死刑もまた廃止しないでもよいのではないか、ということである。一貫させるのであれば、そのようにするのがよい。

 死刑廃止のうったえと、テロリストをその場で射殺する対応とは、両立しないものだろうか。これを両立させるのだとすれば、二重基準だとの批判を受けるかもしれない。そのうえで、原則論と例外論とに分けて見ることができる。

 原則論としては死刑廃止に向かうようにする。しかし例外として、テロリストがテロをおこしたらその場で射殺することの必要さと、それを許容できることを示す。必要さがあり、許容範囲内であれば、例外として限定的に認めることができる。

 原則論として死刑廃止に向かうようにするのは、そもそも死刑が凶悪な犯罪の抑止になるという客観の根拠がないためだとされている。むしろ、死刑があることで、凶悪な犯罪を助長してしまうことすらある。刑罰が重ければ重いほどよいというのは、手段の目的化になりかねない。

 テロリストがテロをおこしてしまうのを一つの結果であるとすると、それがおきてしまう原因をさぐることができる。そうして原因を推しはかっていって、できるだけテロをおこしてしまうのをさせないようにする。現実と妥協して生きて行けるようにする。そのようなことができればさいわいだ。

 観察者と行為者の効果をふまえると、テロリストは行為者である。行為者は自分がテロを引きおこすのを、外の状況や環境のゆえにというふうにしやすい。このように、外の状況や環境のゆえにとするのは、まったくの的はずれであるとは言いがたい。経済の格差や不当な搾取や抑圧といったものは各地に横行している。なので、状況や環境のまずいところを改善することができればよさそうである。