創作物(幻想)であり非実体である国家と、国家どうしの過去をめぐるもめごと

 徴用工をめぐる韓国による主張がある。それに同調する国内の研究者に、文部科学省助成金を交付している。これはいかがなものかということで、自由民主党の文部科学部会は、文科省の幹部を呼んで、説明を受けたという。

 徴用工をめぐる韓国による主張があり、それに国内の研究者が同調しているとする。これは結果論によるものだとできる。それとは別に、動機論や義務論によるものがある。この二つによって見ることができそうだ。

 韓国による徴用工の主張に、国内の研究者が同調しているのは、結果論による。そうしたのがあるからといって、動機論や義務論についてを結果論から忖度するのは必ずしも適したものではない。そこについては、寛容さをもつことができそうである。

 韓国が主張しているのに同調する国内の研究者は、まったく非合理というわけではないとできる。議論をやりとりできるくらいの合理性があるというふうに見なせそうだ。徴用工がとられていたとするかしないかは、主張であるので、その根拠や論拠がある。それらについて、主張だけを見るのではなく、根拠や論拠を見て評価できればよい。

 はたして、韓国が主張しているように、徴用工がとられていたのかどうかは、一つの問題であるとできる。その問題については、韓国が主張している徴用工はでっち上げであるとする仮説がとれる。この仮説は本質というふうには決めつけられそうにない。まだ検証してゆくことがいるものだろう。それに加えて、もっとほかの色々な仮説をもたないとならない。

 そうした色々ある中の一つとして、韓国が徴用工で主張しているのに同調する国内の研究者がいる。そのように見なすことができるとすると、そうした韓国の主張に同調する国内の研究者は、問題の解決にとって益になるものであり、損になるものとは言えそうにない。日韓のあいだの歴史をどう認識するかについての問題が解決しているのならともかく、そうでないのであれば、結論を出すのは早いし、本質がどうなのかを決めてしまうのに待ったをかけられる。

 結論や本質をとってしまうと、確証をもつことになる。その確証がまちがっているとしたらやっかいだ。これは認知の歪みによっているものである。それを避けるためには、確証をもつのだけではなく反証ももたないとならない。そうすることによってつり合いをとることにつなげられる。

 結論や本質は結果だが、それにいたる過程を見てゆく。そうしたのがあればのぞましい。過程をどれくらいの段階に分けるのかがある。分けるのが少なすぎれば一足飛びの単段になってしまう。そうではなくて多段にするのがのぞましい。それで、一つひとつの段階について、その正しさを吟味してゆく。そのようにすることで、相手にもわかってもらいやすくなる。

 徴用工の事象がどうだったのかについては、もしそれがあったのだとすれば、忘却しないほうがのぞましい。忘却して無かったことにするのを否定する。そのようにして想起する。過去の負のあやまちとして、これから先に生かしてゆくようにする。そうすることができれば、過去への想起(レトロスペクティブ)が未来への前望(プロスペクティブ)につなげられる。日本にとって必ずしも損になることではないのではないか。

 徴用工は韓国によるでっち上げにすぎない。もしそうなのであれば、日本にとっては徴用工のことについてを考えずにすむ。そうした可能性を頭から否定することはできそうにない。日本としては、徴用工がなかったのではなくあったとする研究者に助成金を交付したくはない気持ちがあるのだろう。ただ、そのようにしてしまうと、歴史を目的論から見ることになりかねない。それは危ういことである。

 目的論による歴史は、強者によるものである。これは一本の線のあり方だ。それとは別に、弱者によるものもある。面によるあり方である。面とは量であり、一つだけのものではない。いくつもの断片からなっている。この断片は、大説ではなくいわば小説である。こうした小説をひろい上げてゆくことで、真実が明るみに出てくることもないではない。神は細部に宿るともいう。全体と部分とは必ずしも整合するものではないし、部分よりも全体が優先されるのがふさわしいともかぎらない。そうした解釈における決定の不能さといったものはありそうだ。