学生が集まらないという兆候

 会社に学生が集まらなくて大変だ。そうした報道機関があるとするなら、政治や経済のニュースがステレオタイプにおちいっているからではないか。自由民主党安倍晋三首相は、このように述べている。地方の新聞社に属する幹部の人たちの集まりにおいて語ったことであるという。

 会社に学生が集まらなくて大変なことと、政治や経済のニュースがステレオタイプにおちいっていることとは、はたして相関することなのだろうか。そこがちょっと疑問だなというふうに感じた。この二つの現象は、相関していないというふうにも見られる。政治や経済のニュースがステレオタイプであったとしても、会社に学生が集まっていたこと(時期)もありそうだ。

 政治や経済について、ステレオタイプにおちいらないようにするのはよいことだ。もしそれができればという話ではあるわけだけど。ステレオタイプというのは印象の固定化である。これは報道機関がつくりあげてしまうこともあるし、政治がそうすることもあるし、群衆がそうすることもある。ちなみに、報道機関による(政治や経済の)ニュースがステレオタイプにおちいっていると見なすのも、それが固定化されてしまえば、ステレオタイプになりかねない。

 ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)などが発達した時代に、若い人たちは多様な情報を集め自分で判断している。それが自民党への支持の多さとなっているという。首相はこのような見かたをしているようだけど、はたして本当にそうなのだろうか。それとはちがった見かたもできそうだ。

 いまの時代は、ひと昔前とはちがい、基本となる座標軸みたいなのがもちづらい。細分化されている。大きな物語が実質として無いなかで、それでも幻想による大きな物語が求められている。その需要を満たすための供給として、一つの党が強くなっているのではないか。幻想でしかないのはうすうすわかってはいるが、それでも不確実さに面と向かって向き合うよりはいくらかましである。そうした判断がされているような気がする。あくまでも主観の憶測にすぎないものではあるが。

 先行きの見えづらい不確実な時代には、日本では排外(排斥)のあり方が顔を出してきやすい。あるものを排外することによって、秩序を保とうとするのだ。そのような排外の空気がまん延してしまっているのが、憎悪表現(ヘイトスピーチ)の行ないなどにかいま見られる。そうした空気にのっかるというか、悪い言い方でいうとそれとなく利用することによって、一つの党が強くなっている。邪推でしかないのはたしかだが、そうしたのもあるかもしれない。

 地方または都市にある報道機関に、学生が集まらないことの原因を帰属させてしまうのはどうなのだろうか。それだと会社に要因があることになってしまう。それもあるかもしれないが、状況に要因をおくこともできる。超少子高齢の社会による影響は無視することができそうにない。また、中央集権の権力のあり方になりすぎていることの弊害もありそうだ。あまりお金もうけにはつながらないが、社会の中で意義のあることが、成り立ちづらくなっている。そうした地味ではあるが意義のあるものを見抜く目を失いつつあるのではないだろうか。