番組の側の理法があり、BPO の理法があるとすると、どちらかだけが正しいとはなりづらいから、少なくとも投げかけられた批判に耳を傾けられればよい

 誹謗(ひぼう)中傷には屈しない。その見解を変えることはない。テレビ番組のニュース女子は、そのようなあり方をとるのだという。これは、放送倫理・番組向上機構(BPO)からの番組への勧告にたいして、番組の側が応じたものである。

 今後も誹謗中傷に屈することなく、日本の自由な言論空間を守るため、良質な番組を製作してまいります。番組の側は、このように言っている。はたして番組によるこの見解は正しいものなのかどうかをあらためて見ることができそうだ。

 番組の側は、誹謗中傷に屈することなく、日本の自由な言論空間を守るとしている。また、BPO の勧告について、言い分を聞く必要はないともしている。これは、ニュース女子だけではなくて、ほかの番組や報道機関にも当てはまるようにすることができる。とすれば、二重基準になってしまいかねない。ほかの番組や報道機関もまた、ニュース女子が示している見解と同じことを言うことができるはずだ。形式論としてはそれが許されるはずである。ニュース女子だけが特別あつかいされるのではないのだとすれば。

 番組の側が目ざしているとされる、良質な番組をつくるためには、いったい何がいるのだろうか。その一つとしては、製作をする側がもっているであろう認知の歪み(バイアス)をできるだけもたないようにするように努めるのがある。そうして努めるのであれば、BPO からの勧告を退けるのではなく、なるべく聞き入れるようにするのがよい。勧告を頭から退けてしまうと、番組の側がもっているであろう認知の歪みが修正されづらい。維持されてしまう。

 良質な番組をつくるためには、独断のまどろみになるべくおちいらないようにすることもいりそうだ。独断をもってしまうと、そこから偏見が生み出される。こうなってしまえば、良質とはいえず、逆に悪質とさえいえてしまうだろう。そうしたようにならないためには、できるだけ懐疑するのがのぞましい。人間が営むことには、その一つひとつの各段階において、それぞれに誤りをおかしかねない、とするほうが無難である。

 番組の側は、BPO からの勧告にたいして、次のように応じているという。断定するものではなく、疑問として投げかけており、表現上問題があったとは考えておりません。これについては、疑問として投げかけているのなら、断定をするよりかはましなのがある。しかし、断定をしていず、疑問として投げかけているからよいとも言い切れそうにない。というのも、修辞疑問(文)というのがある。これは、疑問の形をとってはいるが、一つの答えを強いるようなものである。開かれた疑問ではなく、閉じた疑問になってしまっているのだ。疑問を投げかけるのであれば、できれば開かれたもののほうがのぞましいだろう。