殺害生産力(軍事力)の増強

 核兵器は、必要悪ではなく、絶対悪である。ノーベル平和賞の受賞の演説で、サーロー節子氏はそのように語っていた。これはまさしくまっとうなことを言っているという気がする。はたして人間は核兵器とともに共存できるのかというのについては、疑いをもたないとならないところがありそうだ。人間と核兵器とは共存ができないとすれば、核兵器をなくして行かないとならない。

 日本の政府は米国製の戦闘機を数十台ほど購入するという。アメリカの防衛産業はそれによって潤っているのだという。戦闘機の購入は、日本の防衛のためということなのかもしれないが、そのいっぽうで、悪い言いかたではあるが、アメリカの防衛産業を富ませることになってしまっているのではないか。

 はたして、軍事の設備を増強するのは、いまの日本にとってほんとうに必要なことなのか。そこが引っかかるところである。ほんとうに必要ではないのに、それを増強しようとしているのではないかとの疑いをさしはさめる。かりにもしほんとうに必要だということであったとしても、それを許容することができるのかの点もおろそかにできない。許容できるかどうかは、金銭の使い方や人道などの面においてである。

 軍事の設備をもつのは、それが攻撃のためのものであるのなら、殺害生産力を高めることになる。そうしたのを整えるのは、まわりから攻撃されかねないような危険性が高まっているからといった理由があげられる。その理由はまったくまちがったものではないにせよ、軍備拡張の競争をまねきかねないものである。

 まわりからの攻撃の危険性が高まってるのが原因であるとして、その結果として自分たちの軍備の設備を増強する。この原因と結果は、反転させることができる。自分たちの軍備の設備を増強したいがために、まわりからの攻撃の危険性を声高に叫んであおっている。そうしたおそれもある。この連関は安全を呼びよせるものとは言い切れず、危険性を呼びよせてしまいかねない。そこが危ぶまれるところだと言えそうだ。

 核兵器による、核抑止力の意見があるのもたしかだ。これをうったえるとして、それが頭からまちがっているとは言い切れそうにない。相手が攻撃してくるとしたらこちらもまたそれに応じて反撃するという、相互確証破壊の考え方もあるという。こうした抑止のあり方は、一つには、物理の力であるハードパワーによりすぎているのがある。物神崇拝である。それに加えて、うまくいっても、大きな戦争がおきないといった消極の平和がのぞめるのにすぎないものであるという。現実にうまくゆくともかぎらず、その点については不確実である。

 非物理の力であるソフトパワーをもっと使えたらよいのがありそうだ。これは一見すると非力のようではあるが、けっしておろそかにはできないような力をもっていると見なせる。物神崇拝におちいらないでもすむ。物質の力に頼るのをいっさい止めよ、というのは極論であり理想論である。そこまでは行かないとしても、物質の力に依存しすぎてしまうのに歯止めをかけるように努めることは少しくらいはできるだろう。そのようにできれば、(うまくいっても)消極の平和しか見こめないのから脱せられて、積極の平和につなげてゆく見こみが少しはもてそうなのがありそうだ。