温かい風を吹かせるとは、冷たくすることではないのではないか

 生活保護の支給する額を減らす。最大で一三%ほどを減らすのだという。それをするのは、低所得世帯との差を整えるためであるとしている。低所得世帯よりも、生活保護の支給額のほうが上回ってしまっているのを改める。

 差を整えるのであれば、生活保護の支給額を減らすことでそれをするのはおかしい。そうした声がウェブにおいてあげられている。低所得世帯よりも生活保護の支給額が上回っているのであれば、低所得世帯を向上させるべきである。低いほうに合わせてしまってどうするのだというわけだ。

 アベノミクスでは、温かい風をまんべんなく行き届かせる、としていた。その温かい風は低所得世帯に吹いているのかといえば、首を傾げざるをえない。生活保護の支給についても、そこに温かい風が吹けばよいが、そうはなっていなさそうだ。温風ではなく冷風が吹いている。温風が吹いているとしても、それはどこかの一部の話であり、全体の中でむらがあると言えそうだ。

 日本は単線社会であると言われている。これは一本の線にしかよっていないあり方だ。その線とは経済である。経済で落ちこぼれてしまうと、救いがないのである。大づかみに言ってしまうと、こうした社会はきわめて生きづらく息苦しいものであるということができる。経済による量の価値観は画一さや一様さをよしとして、質をないがしろにするきらいがいなめない。質が切り捨てられてしまうわけだ。

 経済という線から落ちこぼれてしまっても、救いがあるようにする。そのためには、線を一本だけではなく二本以上にして、複線社会にするのがのぞましい。そうすることで、相乗効果がはたらく。経済にとっても有益となるのが見こめる。

 経済というのは一見すると平等に見えて、じっさいには不平等の温床だ。なので、その線からこぼれ落ちてしまったさいにそれを救えるようなものが充実しているのがのぞましい。そうすれば、経済にとってもよい波及の効果が出るのではないか。

 日本は単線社会であり、経済の一本の線しかない。その線からこぼれ落ちてしまうとどうしようもなくなる。あらかじめのそういった緊張を強いられるのがあるために、なかなか財布のひもがゆるまない。そんな見かたも成り立つのではないか。

 基本の需要である欲求については、それをきちんと満たすことができる。そしてそのうえで、さらなる欲望をもつのであれば、経済による市場に参加する。そうした区別がとれるという。欲求には限度があるが、欲望には限度がない。それによって区別がとれるのである。この区別をとるとすると、市場は欲望を受けもつ。そしてそれとは別の基本の需要である欲求については、無条件で満たすことができる。

 人間としての基本の需要である欲求を満たすのは、なんら恥であるわけではない。そうであるために、生活保護を受給することについて、恥の意識みたいなのがあるとすれば、それをなるべく払しょくできればよい。窓口の水ぎわで止めるのではなく、歓迎できればよい。その一方で、さらなる欲望をもつのであれば市場に参加する。こうしたようにすれば、単線であるのからやや脱せられて、複数の選択がとれるようになる。これは理想論にすぎないのはあるだろう。そのうえで、単線による経済一本やり(一元論)や経済決定論のようなあり方は、そう遠くないうちに行き詰まってしまいそうなのがありそうだ。