失敗の捨象と、肯定(栄光)による象徴

 権力者が、権力を維持してゆく。そのさい、まったく何も失敗をしでかさないとは考えづらい。その失敗をどう見なすかというのがある。失敗をたいしたものではないとすることもできる。本当にたいしたことでないのならそれでもよい。その一方で、大したことがないとしてしまうと、全体化して肯定してしまうおそれがある。

 権力者が権力を維持してゆくのには、神話の作用がはたらく。神話ということについては、それを啓蒙であるというふうにできる。そして、啓蒙は神話に退化する。そのようなことが言われている。これは、哲学者のテオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーによる言明である。

 啓蒙の弁証法では、啓蒙が野蛮に転化すると言われている。このような転化がおきてしまい、野蛮が猛威をふるってしまうのであればやっかいだ。知らずうちに転化してしまっているのである。このようなあり方があるとして、それを大目に見て許してまでも、権力を維持しつづける意味や必要がはたしてあるのか、という疑問をもつことができる。この疑問をふまえるとすると、出発点にまで立ち戻ってあらためて見直すことがいるだろう。

 政治の一面であると言われる、みなの利益につながるようなことがある。それを正の側面であるとできるとすると、それだけではなくて、負の面も同時に見てゆかないとならないのかもしれない。表と裏といったあんばいだ。われわれ一人ひとりの自由の幅が増えるのはみなの利益にあたり、正の面といえる。それがきちんと実現していないのだとすれば、負の面を見てゆかないとならない。それを、あたかも負の面がない(小さい)かのように言ってしまうのであれば、神話となってしまうだろう。