こういうものなのだと必然にしてしまわないで、もっと偶然性をとることができそうだ

 なぜ国民から受信料をとるのか。その理由として、財源の独立性があるのだという。どこか特定の支援者からお金をもらってしまうと、そこからの圧力がかかってしまったり、意向をうかがわないといけなくなったりする。そうした戦前の反省によって立ち、財源の独立性がはかられているという。

 こうした NHK による財源の独立性は、それをとる理由としてはいちおう成り立っているのがありそうだ。そのうえで、財源だけではなくて、じっさいの放送内容がきちんと独立しているのかが改められないといけないのがある。財源の独立性は、放送の内容の独立性にとっての必要条件ではあったとしても、十分条件とまではいえそうにない。

 必要条件ではあったとしても十分条件とまではいえそうにない。もっといえば、相関していないおそれもある。その一つの例として、財源が必ずしも独立していない民間の放送(報道機関)で、政権にたいしてきちんと批判ができている番組もある。いろいろな番組がある中で、NHK の番組よりもむしろまっとうな批判を行なっている民放の番組も中にはあるわけだ。それをふまえると、NHK は踏みこみが足りないのではないかということができる(踏みこめているものも中にはあるかもしれないが)。財源の独立性という宝をうまく活かせていない。

 NHK にとって有利なことを放送するのはよい。その一方で、NHK にとって不利なことを放送しないのは、不公平なことなのではないか。たとえ NHK に不利になることであったとしても、それが国民にとって必要なことであるのなら、なるべく放送するのがのぞましいのではないか。公共性の点でいえば、国民に少しでも益になることは、たとえ NHK にとって多少不利になったとしても、情報として知らしめるべく放送するのがよさそうだ。

 いまのあり方を固定してしまうのではなく、もっと偶有性をとることがあったらよさそうだ。偶有性として、いまのあり方を固定させないようにする。ほかのいろいろなあり方がとれることを示す。こういったあり方もできるとか、こういったふうにもできるというように、その可能性を情報として放送できたらよい。そして視聴者がその情報を見て、こうしたらよいとかの判断をする。それをじっさいの運営にとり入れる。そのようにして改善してゆくのはどうだろうか。