実感の薄い事実と、実感の濃い仮想(擬似環境におかれている)

 仮定の質問には答えられない。自由民主党菅義偉官房長官は、そのように言っている。記者から質問を受けるのにさいして、仮定にもとづくと菅氏が見なしたものは、答えないようにしているようだ。このあり方ははたしてどうなのだろうという気がする。

 そもそもなぜ質問をするのかといえば、一つにはわからないからだというのがある。事実としてわかっていることであれば、それを質問する必要はとり立てて強くはない。

 わからないことを質問するのは自然なことであると見なせる。脳科学の説では、人間の脳には予想をするという本質があると言われている。この本質をふまえると、予想にもとづく質問をするのはそれほど不思議なことであるとは言えそうにない。的はずれな予想であればあまり意味はないのはあるだろうけど。

 人間はほかの動物とはちがい、二足直立歩行をする。二本の足で立って歩く。その姿勢により、後ろをふり返ることができるし、足元を見られるし、前を見わたしやすい。過去と現在と未来を見て行ける。事実としての現在(または過去)とは別に、色んな可能性を推しはかることを行なう。現実世界だけでなく、可能世界もまたある。

 仮定の質問を一つの範ちゅうと見なせるとすると、その中に色々な価値があるとできる。価値のないものもあれば、価値があるものもある。それらをいっしょくたにくくってしまうのはいささか乱暴だ。

 原則として仮定の質問には答えないとするのだとしても、そこに例外を置くことができる。その例外が許されるとすれば、必要性と許容性があることによると言える。必要性として、重要さや理由をもっていて、なおかつ許容できる範囲の内にあるものであれば、なるべく質問に答えるのがのぞましい。

 菅氏と記者とのあいだのやりとりを、一つの場面であると見なせる。そこでは、言語行為が行なわれる。その言語行為において、仮定の質問には答えられないというのが、一つの統制的規則としてとられているということができそうだ。この規則が客観から見て妥当なものであるのかどうかはとりあえず置いておくとして、現に用いられていることはたしかである。

 統制的規則がとられるのは、菅氏と記者とのあいだに序列の関係があるからだろう。菅氏が規則を用いて、記者がそれにしたがう。そうした図式である。これは権力のはたらきによると言ってさしつかえがない。質問に答えなければならない菅氏の立場は必ずしも気安いものではないかもしれないから、菅氏(または政治家)から見ればこの規則は妥当なものなのだろう。

 説明責任(アカウンタビリティ)の点から言えるとすれば、そもそも記者から質問をされる前に、自分から説明するのがあればのぞましい。質問をされてから答えるのではやや遅いとすら言えるのがある。ましてや、質問されたことに答えないのではちょっと残念だ。有権者である国民にたいしてすすんで説明してゆく姿勢があれば、後手に回らずにすむ。

 事実にもとづくのが大事だというのもわからないではないのだけど、逆にいえば、もっと記者に仮定や空想を存分にはたらかせてもらったらどうだろうか。それをうながすのである。仮定や空想は、必ずしも否定の価値をもつものとは言い切れない。そこには知性や理性もはたらいている。人にたいする優しさといったことでの想像(ファンタシー)のありなしというのもある。この想像とは、立場を変えてみるという反転可能性と言ってもよいし、気持ちを察するのや相手の考えを尊重することでもあるだろう。