当事者意識みたいなのがあまり感じられないような気がする(社会全体の問題というのは正しいわけだけど)

 私は楽観主義者である。ツイッターの創業者であるジャック・ドーシー最高経営責任者(CEO)はそのように語っている。ドーシー氏が楽観主義であるとして、それがとくに悪いことではないわけだけど、ツイッターの現状に関しては、はたして楽観するのがふさわしいものなのかがやや疑問である。

 未来に直面するであろう問題は、人々の手で解決できると考えている、とドーシー氏は述べている。人類が進化してゆくために、私たちが抱えている問題について議論をする。その問題が重要なものなのかそうでないのかを理解してゆく。そうすれば正しい方向へエネルギーを向けられる。ツイッターがそうした意思疎通の場として生かされてほしい。

 こうした前向きなことをドーシー氏は NHK の取材の中で述べている。このドーシー氏による前向きな見かたを個人による見解であるとすると、じっさいにはそれとは逆の見かたも成り立ちそうだ。議論の可能性ではなくて、不可能性のほうが目だつ。理解よりも誤解が多く生まれてしまっている。その不可能性や誤解がこれから先に改められるのかというと、何か有効な対策が立てられでもしないかぎりは難しそうだ。

 ドーシー氏は、人類が進化してゆくためにと言っているが、これをツイッターそのものに向けることもできるのではないか。ツイッターが進化してゆくために、ツイッターが抱えている問題について見てゆくようにするのである。そのようにしてツイッターを少しずつ進化(改善)させて行ければのぞましい。これは、自己言及や再帰性から言えることである。

 私たちが抱えている問題について議論をする。そうした場としてツイッターを用いるのであれば、そうしたことができる環境が整っているのがのぞましい。主張(と根拠)について、これはよいものだとかそうではないだとかの評価ができるようにする。そうしたようにして、議論についての評価ができればよいのが一つにはある。発言者の属性とか結論とは別に、議論の過程についてを見るようにするわけだ。

 そのように合理性をもった議論の場にしてゆくのであれば、それができるような環境を整えることもできなくはなさそうだ。しかしツイッターは、そうした目的に特化する場ではないだろうから、そこがきっと難しい点なのだろう。この点については楽観することもできるのだろうけど、個人としてはちょっと悲観せざるをえないような気がしてしまうのもたしかである。

 本音がいつもむき出しになってしまうようだとちょっとまずい。ひとり言だとかで本音をぶちまけるのはよいわけだけど、ウェブは不特定多数の人が見る場所だから、建て前があるていどは有効でないとならない。弱者や少数者の意向が重んじられるようであればのぞましい。どのような集団であっても、たいていは弱者や少数者に不当にしわ寄せがかかるものである。そうした負の面に少しでも目や耳が向けられればさいわいだ。