当為(ゾルレン)としてのあるべき横綱のあり方と、実在(ザイン)として事件がどうだったのかが、混ざり合っていそうである

 暴行の事件をおこしたことで、引退をする。大相撲の横綱日馬富士は、そのような意を示したという。日馬富士は、貴乃花部屋の力士の貴ノ岩関に暴行をふるったと報じられている。そのいきさつの全容はまだ明らかにはなっていない。

 日馬富士は、なぜ貴ノ岩に暴力をふるったのか。それについては、貴ノ岩が礼を失するようなことをしたためなのだそうだ。礼儀や礼節を直すために手を上げた。これは、日馬富士における内面の動機と見ることができる。この動機については、とくにまちがったことだというわけではないかもしれない。その手段として手を上げたのは駄目なのはあるわけだけど。

 わからない点の一つとして、はたして貴ノ岩がどれくらい礼を失するようなことをしたのかがある。ほんのちょっと礼を失しただけなのか、それとも中くらいか、もしくはものすごく礼を失したのか。その度合いによって、日馬富士が手を上げたことへの見かたが変わるのがある。暴力をふるったのはいけないことなのはたしかだけど、それに対するどのような礼の失しかたがあったのだろうか。そこのつり合いが気になるところだ。

 もう一つわからない点をあげられるとすると、日馬富士ははたして引退する必要があったのかがある。暴力をふるったといっても、それがどの程度のものなのかが明らかでないから、どう見なしたらよいのかが定かとは言いがたい。ほんの少しの暴力をふるっただけであるとすれば、それで引退するのは行きすぎなのではないかという気もする。そこのつり合いはどうなのだろう。

 世間を大きく騒がせたのがある。これについては、報道機関の報道のしかたによるのが無視できない。できるだけ視聴率や見聞きしてくれる人を多くするために、話を大げさに盛ってしまっているおそれがあるから、それを差し引いて見ることができるだろう。それにくわえて、どういった枠組みによるのかもある。挿話(episodic)による枠組みで報じると、個人たたきのようになってしまうのがあるという。こうした報じ方によるとして、それが必ずしもまちがいというわけではないが、別の見かたもできることはたしかである。

 横綱であるなら、下の者が礼儀や礼節に適っていないのを直す務めがある。そのように日馬富士は思っていたのだろうか。親分肌のようなあり方だ。これは、日馬富士横綱のあり方を誤解していたおそれがあるのではないか。横綱であるのなら、下の者が非礼をはたらいたのを直さないとならないとして、義務みたいにとらえていたのかもしれない。日馬富士の内面を忖度できるとすれば、そのようなことが一つには言えそうだ。

 相撲協会は、日馬富士にたいして、横綱とはこういうものであり、こうあればよいものなのだというふうにきちんと教えていたのだろうか。もしそうしたように親切に手とり足とり教えていなかったのだとすれば、相撲協会にも多少の非があるとの見かたも成り立つ。日馬富士横綱のあり方をまちがってとらえていたのだとすれば、それにたいして相撲協会は多少の弁護をするだとか、少しはかばってあげてもよさそうなものである。あくまでこれは部外者の意見にすぎないものではあるけど(偏った意見であるかもしれない)。