過大(過剰)の幻想と、過小化の現実

 二〇二五年問題がある。それについて、毎日新聞の社説に載っていた。この問題は、団塊の世代が七五歳以上になる年をさす。こうした社会保障の危機がこれから先に迫っているのに、それについてきちんとした対応がとられていない。そのことについて警鐘を鳴らしている内容である。

 社会が超高齢になるのに加えて、人口も減ってゆく。今はおよそ一億二七〇〇万人いるとされるが、これが二〇五〇年ごろには一億を割りこむ。二〇六〇年代には八〇〇〇万人台になるという。

 社会保障と人口減少の危機は、一つの国難といえそうだ。こうしたことについて、選挙では中心の争点としてとり上げられていない。それで選挙に勝っていまの与党があるといえそうだ。こうしたあり方は、大衆民主主義および大衆迎合主義と言ってさしつかえないのではないか。

 この毎日新聞の社説の内容は、議会外の野党(反対勢力)からの声と言ってよいものだろう。この声に政権与党はできるだけ耳を貸すべきではないかという気がする。選挙中に、都合の悪いことはなるべく言わないようにして勝っているのがある。勝ったのをよしとして、選挙が終わったあとに野党の声を軽んじるようではまずい。議会の内外にある声を、進んで聞き入れるべきである。

 これから先に迫っている国難については、いまの与党にすべての責任があるのではない。過去のこれまでの政権が先送りにしてうやむやにしてきたことでもあるという。この先送りにするのは、けっきょく本質としての解決にはつながっていないので、つけが溜まってしまっているようなあんばいだ。それで今にいたっている。

 これから先については、楽観もできそうだ。楽観で見れば、未来においても日本は有能であり、もっといってしまえば全能である。自己(自国)における効力感をずっと保てる。ものごとがよい方へと転がってゆくわけである。国の威光を大きく失うことがない。

 楽観のほかには、楽観と悲観を半分ずつ持つのや、悲観だけを持つことができる。楽観と悲観を半分ずつ持つのは分能であり、悲観だけを持つのは無能(無力)である。

 楽観だと全能感や効力感にひたれるが、そのいっぽうで危機をきちんと認識することができない。すぐ先に迫っている国難を軽んじてしまう。そうしたあり方であると、これまでの政権がやってきたように、やっかいなことを先送りするやり方と同じである。そうしたやり方はまずいものだろう。

 現実をふまえたあり方としては、楽観と悲観を半分ずつ持つのや、悲観によるようなふうにするのがよさそうだ。そのほうが、危機を軽んじないですむので、きちんとした認識をもちやすい。そうしたふうにするためには、自分たちの全能感や効力感や有能さに疑いを突きつけるようなものに目を向けるようにする。それらを損なわせるようなものにもきちんと目を向ける。有用性の回路だけに閉じてしまわないようにすることがいりそうだ。有用性の回路とは、過小化の隠ぺいである。

 過去(起源)と現在と未来という、通時による見かたがあるとよい。この見かたによるのができれば、共時によって今だけよければそれでよいとするのに多少の歯止めをかけられる。現在はよいとしても、それはそれとして、(近)未来にたいしても配慮をもつ。連続や持続の視点である。儒教でよしとされる孝にあたる。短期としてよい(悪い)ことだけではなく、中期や長期としてよい(悪い)ことなんかもふまえられればさいわいだ。そこで冷静な議論ができればよい。