サンフランシスコ市はアメリカにあり、そのアメリカの大統領と日本の首相は蜜月とされているのがあるから、そこのかね合いはどうなのだろう

 女性が三人で手をつないでいる。そうした像が、アメリカのサンフランシスコ市に建てられた。これは、従軍慰安婦(戦時性暴力被害者)をあらわしたものである。サンフランシスコ市の議会は、この像を建てることを全会一致で決めたという。

 サンフランシスコ市と姉妹都市であるのが日本の大阪市である。大阪市はこの像を建てるのを不服として、サンフランシスコ市のエドウィン・リー市長にあてて書簡を送ったそうだ。像を建てるのに市長が拒否権を使ってほしいとたのんだ。しかしリー市長はこれを受け入れなかった。よって、大阪市の吉村洋文市長はサンフランシスコ市との六〇年にわたる姉妹都市の関係をやめることを決めたそうである。

 せっかく六〇年も姉妹都市の関係をつづけてきたのに、それをやめてしまうのはもったいないなという気がする。姉妹都市の関係をやめたところで、サンフランシスコ市の側の考えが変わるわけでもないから、本質として有益な決断だったのかは多少の疑問が残るところである。

 慰安婦像には碑文があり、そこには、性奴隷にされた何十万人の女性だとか、大多数はとらわれの身のまま命を落とした、とあるそうだ。大阪市の吉村市長は、これについて、日本政府の見解とちがうとしている。この吉村市長の見解ははたしてどうだろうか。日本政府の見解をそのままよしとしてしまっているのがちょっと腑に落ちない。そこを疑うこともできるはずである。

 サンフランシスコ市に建てられた像について、それを全面からは受け入れられない。もしそうであるのだとしても、一部については受け入れられるのではないか。像を建てた趣旨として、女性の権利の向上なんかがあることが察せられる。その点については、その価値を評価できるはずである。たんに歴史の認識についてどうなのかということにだけ還元してしまうと矮小化することになりかねない。そこはゆずれないところではあるかもしれないけど、いっぽうで意義を認められるところは一部認めるというのはどうだろう。

 まったくもって吉村市長の決めたことがまちがっているというわけではない。それはそれで一つの決定としてありなものではあるだろう。そのうえで、国をまたいだ社会関係(パブリック・リレーションズ)を築くようにするのもよいのではないか。それをするためには、どういった倫理観をもつのかがいる。たとえば、自国に都合の悪いことを隠してしまったり忘却したりするのではなく、それをなるべく明らかにして行く。また、女性の人権を守り、戦争時の性暴力の被害は決してあってはならないことだとする。もしあったのだとしたら否認をしないで認めて謝罪をする。こうした姿勢をとるのができたらよいのかなという気がする。それによってとくに損をするわけではないだろう。

 もめていることがあるとして、それを転化させることができればのぞましい。もめていることはマイナスなことなわけだけど、それをプラスのことに転化するのもできないではない。こちらが勝つか相手が勝つかとか、こちらが負けるか相手が負けるか、といったとらえ方では、固定和(fixed-pie)の前提に立っている。これだととり分の奪い合いになりかねない。そうではなくて、和を広げられるようなこともあるから、そういったのをさぐるのはどうだろうか。隣国である韓国や中国にプラスになり、日本にもまたプラスになる、といった方向である。そんなにうまい手はそうそうはないかもしれないが、こうした方向のほうがよい動機づけがもてそうだ。

 日本がことさらに悪く言われるのには我慢がならない。そうした心情があるとすれば、それは分からないでもないのがある。その心情は、視点を変えることで少し和らげることができるかもしれない。日本が悪く言われるのは、日本に焦点が当たっているからにすぎない。日本以外の国に焦点を当てれば、悪いことをまったくやってきていない国などほとんど無いのではないか。ゆえに、日本が悪く言われることについては、それを広げて見ると、ほかの国をも含めた共同性のことがらとして見られる。日本だけではないとして、共同性のことがらとしてしまうのは一つの手としてありそうだ。

 どういった方へもって行くのがのぞましいのかといえば、それは融和や和解や友好や連帯とかに向かえればよい。そうではない、逆の敵対の方へ向かってしまうようだと、それは危ないことはたしかだ。そうした危ないほうへ進むのをいかに避けられるのかがある。

 必然の水準で見ると、明らかに日本をおとしいれようとする悪い企てとして一つには見られる。しかしそれとは別に、可能性の水準でも見られる。可能性として見るのだとすれば、そこには両面価値(両価性)があるとできる。それは陰でもあり光でもある。陰だともできるけど光だともできなくはない。その光に当たるのは、ゆるしである。ほんのわずかなささやきのようなかすかな声ではあるとしても、そこに和解の希望みたいなのを見いだすこともできるのではないかという気がする。