ていねいで正しい言葉を話すと日本人は無視するのを、ていねいで正しい言葉で話したら日本人は無視するのだろうか

 ていねいで正しい言葉を話す。そうすると、日本人は無視する。元テレビ局アナウンサーの長谷川豊氏が、そのようなことを言っていたのをブログの記事で見かけた。はたしてこのようなことがあるのだろうかというふうに疑問に感じた。

 ていねいで正しい言葉を話していて、無視されていない人も少なくない。たとえば天皇陛下皇后陛下がそれに当たるだろう。これは地位にもよるのかもしれないが、もし天皇陛下皇后陛下がかりにではあるが汚い言葉を話したとしたら、ちょっと幻滅してしまうところもないではない。じっさいにそういうことはないわけだけど。

 ていねいで正しい言葉を話していても、無視されていないでしたわれている人もいるわけだから、これは長谷川氏の説への反例としてあげられることである。

 もしかりに、ていねいで正しい言葉を話していると日本人が無視するのであるのなら、それは無視する方がまちがっているのではないか。そのようにも言うことができるかもしれない。方法二元論をとるとすると、事実から価値を導くのに待ったをかけられる。事実は事実であり、価値は価値であるとできる。無視されるという事実があるとしても、それと何が価値であるのかはまた別の話だ。

 ていねいで正しい言葉を話すのと、日本人から無視されるのとは、必ずしも因果関係で結びつかないと見ることができるかもしれない。ていねいで正しい言葉を話すのが原因であり、日本人から無視されるのが結果だとはできないわけである。原因と結果の二項が、結びつくのではなく、別々に見られる。ほかにありえるだろう原因として、話の構成や(内容が)未知か既知かや面白さや冗長さや発話者の威光などがどうなのかがある。

 因果関係があるわけではないとして、相関関係はどうだろうか。相関関係では共変関係があるかどうかによって見られるそうだ。ていねいで正しい言葉を話すのとは別に、汚い言葉で話すことでも一部から無視されるとすれば、いずれにせよ(ていどのちがいはあったとしても)場合によっては無視されるわけである。なので相関があるとは必ずしも言い切れない。

 ていねいで正しい言葉を話すと、日本人から無視されるのだという、その認知がまちがっているおそれもある。じつは無視されていないのかもしれない。事実を誤認しているのである。誤認ではなく、じっさいに無視されているとしても、それはたまたま無視されているだけなのか、意識して故意に無視されているのかがわからない。もしたまたま無視されているだけなのだとすれば、そこにはわずかではあるかもしれないが救いがある。運の要素があるわけだ。偶有性がある。無視の反対は絶賛とか賞賛による受容だとすると、そのようなふうになることも可能性としてはまったくゼロではない。万人からそのように受容されるのは無理だとしても、たった一人から絶賛や賞賛されるかもしれない。

 数として見たら、一人だけから受け入れられてもものの数ではないのがある。しかし数がすべてではないのもまたたしかだ。一人というのは極端だとしても、少数と多数があるとして、そのちがいは相対的なものにすぎない。数のちがいとは別に、質によって見ることもできる。質によって見るのであれば、数は二次的なものとなる。

 日本人をこれこれのようなものであるとして仕立てあげるのではなく、それに待ったをかけることができる。もしそのようにして、これこれのようなものであると仕立てあげてしまうと、一神教のようになる。それとは別に多神教として見ることもできる。多神教では、捨てる神あればひろう神ありとも言われるから、無視するのをかりに捨てると言えるとすると、必ずしも捨てたものではない。

 ていねいで正しい言葉を話すのとはちょっと意味合いがちがうのだけど、直接にずばっと言ってのけてしまうといったような斫断(しゃくだん)をするのは必ずしも功を奏するとはかぎらない。そこでいらぬ角が立ってしまうというのがある。なので、そうしたいらぬ角をむやみに立てないためにも、甘めに言うというのがあるのがよいのかもしれない。孫子の兵法では、迂(う)をもって直となすとも言われる。ときにはぴしりと辛く言うのもいるのはあるだろうけど。あと辛口で言ったほうが自分が気持ちよいのもある。