あくまでも問題がないとの前提(仮定)に立つとしても、じっさいには問題ありの相に転移しているおそれがある(その相の中にしっかりと両足が入りこんでしまっている)

 問題がもちあがる。そのさい、その問題がなぜおきたのかが一つにはある。そしてもう一つには、その問題にどのように対応するのかの側面もある。この二つをふまえてみることができそうだ。

 この二つのうちで、かりに何かの問題がおきてしまったのだとして、それへの対応をどうするのかをとりあげられる。問題というのを一つのできごと(event)だと見なせるとすると、できごとは事前ではなく事後に認められるものである。事後として、現在形または過去形の時制で認められるものだ。

 問題への対応については、最初期重点対処の法則というのがあるそうだ。これは、何かの問題がおきたさいに、その最初期に最大限の力を注いで対処することをさす。たとえばどこかの場所に火があがったとすれば、はじめのうちはまだ大きくないので、わりあい消しやすい。しかし放っておくとどんどん大きくなり、消しづらくなる。火の手が広がってしまう。

 問題がおきたばかりである最初期は、そこへ重点をおいて最大限に力を注ぐ機会だとも見なせる。認知と行動が早いほどよい。その機会をみすみす逃してしまい、たいした力を注がずに中途半端にしてしまうのだと見かたによってはもったいない。労力を省いたぶんだけ、問題の解消の効果も期待できない。後手後手に回ってしまうことになるわけだ。

 まだきちんとした問題の形をとっていないか、もしくはまだ引き返そうと思えばそれができるのを、一つの相と見なせる。それとは別に、ある一つの問題の形をとってしまったり、ここから先は引き返そうと思ってもそれができなくなったりする相があげられる。前の相からあとの相へ転移してしまうとすると、その境い目がある。この境い目をふまえてみることができそうだ。

 問題なしの相と、問題ありの相があるとして、問題なしの相にとどまっていられれば、問題はなかったわけである。これが、問題ありの相に移ってしまうのは、臨界量を超えてしまったことによるのがある。これは限界質量ともいい、クリティカル・マスまたはティッピング・ポイントとも呼ばれるという。この臨界量は、自分に甘ければそれを大きく見積もることができる。逆に自分に厳しくして律するのなら、それを小さく見積もることになる。

 自分がこれくらいだろうと見なしている臨界量が、世間がこれくらいだと見なしている臨界量と同じだとはかぎらない。世間の中でも、それをすごく小さく見ている人もいれば、大きく見ている人もいるだろう。そのどちらに合わせるのかがあるわけだけど、(世間の中で)大きく見ている人に合わせてしまうと、たるんでしまうことになりかねない。自分の中の基準が甘くなってしまうのだ。そうすると、ほんとうは臨界量を超えてしまっているのにもかかわらず、それに気がつかないで見逃してしまうことにつながりかねない。そうした危うさがある。

 さしてとるに足りないことなのにもかかわらず、それをことさらに大げさに騒ぐのはいかがなものか。そうしたことも言える。それをふまえつつ、別な見かたもできることはたしかだ。たとえほんのささやかなことであったのだとしても、それを重要なことだと見なす人がいるとすれば、それを尊重するのがあってもよい。そこに寛容さをはたらかせるといったあんばいだ。不寛容になってしまうこともあるわけだけど。

 小さなことであっても、それを軽んじてしまい、無視してしまうと、危機の引き金となる。小さくても重要でないとはかぎらない。こうした小さなことに目を向けるのは、微視(ミクロ)による見かただといえるだろう。この微視による見かたをもつとすると、ちょっとしたことだと見なせることがおきたとして、それが生起したのを見逃さないようにする。そうして生起したことをきちんと認めて、危機管理をするとよい。

 森の中に木があるとして、ある特定の木にばかりこだわってしまうのは、全体への視点を欠くことになりかねない。そうしたのはあるが、いっぽうで、何か特定の木に焦点を合わせないととりつく島がないというのもある。全体をばく然と見るのではなく、特定の木をとっかかりとして焦点を合わせる。たんなる部分としての一つの木だとしても、それは有機として森そのものとつながっている。木は木々になり、それが林になり森になるといったあんばいだ。森は虚偽(幻想)であり、木が真であるとも言える。個別のところに真実がやどると言えないでもない。