何をもってしてていねいという形容ができるのかがある(何ならばていねいであると言えるのかの条件が明らかでないし、意味合いも定かではない)

 ていねいな説明を重ねてきた。疑惑としてとり沙汰されていることについて、自由民主党安倍晋三首相はそのように述べた。国会での答弁の中で、疑惑についてはすでに説明してきたのだと言う。ここには、首相における素朴な現実主義(naive realism)がかいま見られる。

 ていねいな説明を重ねてきたことに、確証をもつ。そうしたのとは別に、その確証をいま一度改めて見ることがいる。そのように改めて見ることがないと、素朴な現実主義におちいってしまう。これは、自分の観点を正しいものだとして、正当化してしまうものである。わからず屋の相手が悪いのであり邪だとしてしまう。

 自分による現状認識がもっとも正しいものだと言えるのか。それが一つにはあるだろう。人には人のまたちがった現状認識があるのであり、それにもとづいた行動があるのもたしかだ。それらを比べてみて、どちらかが完全に正しいというよりは、どちらもがそれぞれに限定されていると見ることができる。人間が行なう推論は、自尊心(自己愛)からの影響を少なからず受けてしまうとされるのがある。

 自分の観点をあくまでも正しいものだとしてしまうと、自己修正がききづらくなる。一方的になってしまう。これは、自分の見なし方をしっかりと基礎づけていることをあらわす。自説のくり返しとなり、ひとり言である独話の構造となる。そのようにするのではなく、自分をずらして行くのができればのぞましい。相互関係や相互流通をとるのである。

 かりにていねいな説明を重ねてきているのだとすれば、それによって相手がそれなりに納得したり、問題があるていど解決していたりするはずである。しかし一向にそうはなっていないのだとすれば、いまの現状と整合していない。話が平行線となり、水かけ論となってしまっているのが現状だ。

 首相の言っていることが、まったくのでたらめというわけではないとも言える。いちおう国会の中で答弁を(正面からではないにせよ)こなしてはいる。しかしそれをやったからといって、必要十分だとは言えそうにはない。それを必要十分だと見なしてしまうと、心理的なしくみである、自我の防衛機制や認知の不協和の解消がはたらいてしまっている。

 なにを必要十分だとするのかは、たとえば、人から聞かれたり問われたりする前に自分から口を開いて説明をつくす機会を率先してもうける。そのほかに、さまざまなところにいる記者に参加を呼びかけて、自由に質問をさせて自分がそれに応答する。こんなことができればよいのではないか。じっさいにはむずかしいだろうし、そんなことをする必要などない、というのもあるかもしれないが、これは完全な義務とは言えないまでも、努力目標としてはおけるはずだ。

 ていねいな説明を重ねてゆくのも悪くはないけど、それよりも真相を明らかにするように努めるのがよいのではないか。真相を明らかにしてゆくのではなく、それを隠してしまうのであればもってのほかである。

 ていねいな説明を重ねるというのは、それをしたからよいというのではなく、何の目的意識によってなされているのかが要点としてある。ていねいな説明をすること自体が目的なのではなく、それは手段にすぎない。疑惑の真相を少しでも明らかにしたり、批判を投げかけている人たちが少しでも納得できるような答えを示したりすることが肝心である。

 一つの発話として見てみると、首相の言うていねいな説明を重ねてきたとの弁は、事実(コンスタティブ)というよりは遂行(パフォーマティブ)であると言わざるをえない。遂行であるということは、言(言っていること)と行(やったこと)が一致していないということである。その言と行を一致させるために、まだまだできることがあるはずである。やっていないけど、やったことにしてしまう、という一致のさせ方ではまずいだろう。