格律(マキシム)が普遍化できるかどうかで、言動を見られそうだ(自分たちはやっているのに、相手にやめろと言うと普遍ではなくなる)

 北朝鮮を非難する。そうしたことで、東京の新宿でデモが行なわれた。名目のうえでは、北朝鮮を非難する国民大行進とうたっているようで、それに偽りがあるわけではないのだろうけど、その中では憎悪表現(ヘイトスピーチ)まがいのことも言われたのだという。朝鮮人朝鮮半島に帰れ、などの文句である。

 北朝鮮がミサイルを海へ撃ってきたり、核兵器を開発したりしているのは、のぞましくないことであるのはたしかだ。なぜそうしたことをするのかということについては、必ずしも北朝鮮の内的な特性とはいえないのがある。一国の要因か、それとも状況の要因かのちがいである。

 原因や責任の帰属については、共時(横)と通時(縦)による見かたが成り立ちそうだ。共時においては、世界の中で大国と小国の力の差があるのがあげられる。それぞれの国のあいだで平等や公平になっているとは言いがたい。力の差による支配と被支配の関係がとられてしまっている。そうしたのがあるとして、力(might)と正義(right)を分けてとらえることがいりそうだ。

 通時においては、かつて日本は朝鮮半島を植民地支配していたのがある。そこでは日本の臣民として、同一化政策がとられていた。これはその土地や場所の実情を無視したものである。そして戦後には、朝鮮半島は北と南に分かれてしまったわけだけど、これは日本にもその責任が少なからずある(大いにある)。だから他人ごとであるとはいえないものだろう。

 北朝鮮が国家としていだいているとされる、意思や野望が正しいものであるとはいえそうにない。ミサイルを海へ撃ったり、核兵器を開発したりするよりも、もっと経済開発や人間開発をするのが優先できる。人間開発とは、経済とは別に人間を中心にするもので、一人ひとりの国民の選択と機会の幅を増やすものであるそうだ。そうすることで一人ひとりの自由の幅が増える。

 北朝鮮を非難するのだとしたら、経済の発展や人権の保障を国民にもたらすようにせよ、なんていう訴えをするのもよさそうである。北朝鮮には北朝鮮の主権があるのはたしかなわけで、内政干渉は不当だなんていうのもあるかもしれないが、それはそれとして、話し合うのは必要だ。話し合いなんて現実にはとうていできっこないというのもあるから、あまり説得力はないかもしれないけど。

 話し合いのできづらさについては、一つには二重基準であるのをあげられる。核兵器については、ある国は保有してもよいが、ほかの国は保有するな、というのがまかり通ってしまっているのを無視できそうにない。われわれは持つけど、君たちは持つな、ということだ。この二重基準はおかしいといえばおかしいものである。北朝鮮は、それをついてきているのがありそうだ。ゆえに、北朝鮮を非難するのとは別に、こうした二重基準がまかり通ってしまっているのをよしとしているのだとすると、それを非難しないとならない。

 北朝鮮は不道徳で、北朝鮮を非難している国が道徳的だ、とは必ずしも言えなさそうだ。すべての二重基準が、それだけをもってして頭から否定されるべきだとは言えないかもしれないけど、少なくともそこに欺まんみたいなものがあることはいなめない。

 毛沢東は矛盾論において、目の前の矛盾の背後には主要矛盾があり、それを認知せよと言ったのだという。北朝鮮のあり方を非難するというのは、目の前の矛盾である従属矛盾をとりあげることに近そうだ。そこでとどまらずに、その背後にある主要矛盾を認知できればよさそうである。そのようにできれば、重層(多元)的にとらえることにつなげられる。